研究者が肩書のつかないただのオタクになること

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最初の緊急事態宣言があけた後、久しぶりに大学にでて、資料のコピーをしていた時のことだ。

 

 お互い顔は見知ってはいるけれど話したことのない他学部の教授が、にこにこしながら「君は何か、研究分野以外で心の熱くなるものはありますか?」と尋ねてきた。

あるにはあるのだが、未だにまともな論文がしっかりかけていない私は、遊んでいるのではと思われるのが嫌で、はっきりと「あります」と返事をすることに躊躇し、ごにょごにょと口ごもっていた。

 

 すると教授が続けて、「研究者がはまりだすとな、もうね、これまで研究で培ったリサーチ能力やら分析力を総動員するやん。極めつけは、論文まで書く勢いやから、困ったもんやわ。」「学会という名の押しを称える会をやりたいわ。」(関西弁イントネーション)と語りだした。

 

60を過ぎたおっちゃん先生から「押し」というワードが出たことにびっくりだったが、

 

 そうなのだ、我々研究をライフワークとする者たちは、基本的に「オタク気質」なのだ。たまたま、興味の対象が大学の既存の「学問分野」とされるものだったというだけで、大学や研究機関で職ないし発表の場を得られれば「学者」なり「研究者」と肩書がつくが、本質はオタクであることには変わりないのである。

 

緊急事態宣言中、人と話すことが少なくて誰かに声をかけてみたかっただけなのか。

それとも、誰かに思わず語りたくなるくらいはまり込んでしまったものがあるのか、他学部の院生に話しかけてしまうくらいだから、よほどのことだろう。

教授のはまっっているものは何なのか聞いてみたい衝動に駆られたが、抑えた。

 

少なくとも「学者」とよばれるオタクについては、その性質をよく理解しているつもりである。

 

うかつに興味を示すと、数時間は話を聞き続けることになる。

アリジゴクに自ら入り込む虫と同じである。

 

そして万が一にも自分の趣味嗜好に合致するものであった場合、これはまずい。

沼入りである。教授とふたりして「これは共同研究である」などと言って研究室でオタク活動にいそしみかねない。

 

私は、自分の研究と仕事、家事、睡眠時間を確保するので必死なのである。

 

うかつに、興味を示してはならない。

 

 

 私は、まだまだ「研究」というにはおこがましいレベルでしか学問を理解できていないので、不器用なりに「時間をかけること」でどうにか他の院生や研究者に追いつこうとしている。

故に、専攻分野以外では、「推しが第1優先」であるオタクにはなってはいけないと思っていた。

 

 研究者が研究を「業」として続けていくには、成果を出し続けなければならない。研究成果を出せない、論文が書けなければ、大学組織の中では「研究者」「学者」として残ることはできず、肩書のつかないただのただのオタクになるのだ。

 

 教授はさらに続けてこう仰った。

「大学での研究とは別に何か情熱を傾けられるものをいくつか持っておくとええで。研究に全人生をかけるのも悪くはない。せやけど、研究がうまくいかんかったとき、スランプに陥ったときにな、人生の全てがうまく回らなくなんねん。リスクヘッジやと思って趣味も一生懸命愉しもな~。」「僕は毎日楽しいで~。原稿の締め切り迫ってるけどな!!」

 

 

 あれから1年たって最近知ったことだが、教授の指導院生が、鬱になって休学することになったらしい。図書館の度々紙の詰まるコピー機を前に、一緒に悪戦苦闘したりして、時たま話す程度ではあったが、いつも研究室に朝から晩までいるような熱心な子であるのは知っていた。本当だったらその子は去年の春から海外に調査研究に行っているはずだった。

 

 

 数年前の春休みに、私自身も指導を受けたことのある先生が急死された。その3週間前まで普通に授業をされていたから、突然のことに驚いた。

 家族葬が終わってから大学に知らせが入って、お別れの会が開かれたが、ご病気だったとか死因について一切話がでてこなかった。学会の準備で色んな先生方と話していたら、どうやら事故やご病気で亡くなられたわけではなさそうだとなんとなく理解した。

 

 所属していた大学院を修了して、純粋な学生という立場でなくなってから、「研究者」であると同時に教える立場にある「教育者」であることの苦悩のようなものを、指導教授が語ってくれるようになった。

 

 人生は、一つのことだけで成り立っているわけではないし、いろんなことを同時進行しなければならない。研究者にとって研究はオタク活動・自己実現であると同時に、生計を立てる術でもある。

 だから、単なる趣味のように投げ出すことはできない。それは、自分の生きがい・夢と己の(家族の)生活を投げ出すことに他ならないからだ。

 

 長く研究を続けるには、まず、自分自身を長く存続させることがまず第一条件だ。

 

 だから、私は自分自身を支えてくれる支柱を増やそうと思った。

 一人前になるまでは、と封印していたあらゆる趣味を解禁した。

短い期間だったけれど留学までさせてもらったのに、プロになれるわけじゃない、勉強と全く関係がないからと言って、踊らなくなってしまったバレエ。レッスンを再開して、発表会にも出ることにした。

小説や、画集、漫画なども買って読むようになったし、ドラマも見るようになった。

供給量が多すぎて、沼入りすると危険な某KPOPアイドルにも手を出した。

 

好きなものが私の「時間」というパイを奪いあっているわけだけれど、

とにかく毎日楽しい。

時間を最大限有効活用することに必死になったので、メリハリがついて時間の使い方が少し上手になったような気もする。

 

 少し前に、進学先の大学野球でうまくいかず中退し、強盗で逮捕された元甲子園球児のニュースに、「他の道を断って一つの道を進むことはかっこよく見えるけれど、それは本当に苦しいことだから、周りの大人は、教育者は、行き詰ったときに、他の道もあることを示してあげること、今の道を別の道につなげることもできるということを教えてあげることが必要なんだよ」というような感じのコメントをどこかで見た。

 

 

何か頑張っている人を見ると、応援したくなるのが人情である。

それが人を時に追い詰めてしまうこともある。

道を示したり導くなんて、簡単なことではない。

 

けれど、自分はこうやって毎日過ごしている、ということを世間話でもするようにさらっと話してくれることで、気づかされることもある。

 

何にはまっているのかわからないけれど、あの教授は「研究者が肩書のつかないただのオタクになること」を私に語ることで、「自己実現と生活」というプレッシャーを和らげようとしてくれたのかもしれない。

 

単に、推しの話をしたかっただけかもしれないけれど。

 

 

久しぶりに、「成果」や「結果」を考えずに、純粋に自分の好きなものに没頭する時間を意識的にもったことで、ものすごく毎日が楽しいと感じた。

それと同時に、やっぱり私は今の研究が好きなのだと改めて思った。

ただただ、興味が止まらなくて猛進していったオタク活動が、仕事になって、成果を求められるようになって、少しつらくなってしまっただけで、研究対象への興味と情熱は失ってはいないのだ。

 

研究者が肩書のつかないただのオタクになる時間は、

ただの「オタク活動」ではなくなってしまった研究を、好きでいるためにも、必要だと思った。

 

なんやかんやYouTubeを開けば、まともな論文もかけない私が研究以外のことに時間を使うなんて…!!と、背徳感があるけれど、いいんだ。

「成果を出すこと」が先になって、楽しいという感覚を忘れかけていた。

何かを楽しんでいる感覚が、「わからないことを延々と考え続ける」傍から見れば苦行にも似た行為、研究という活動が、私にとっては本来楽しいものなんだと思い出させてくれる。

 

 

 

 

未だにあの教授の押しが何なのかは、知らない。

知らない方がいいかもしれない。

でも今の私なら、お伺いしますよ。

「ところで、先生の”押し”は何ですか…???」

 

記憶に残っていること、記憶に残していること

 

春は一瞬でながれていく。
高瀬川に落とした一葉のように、手のひらから離れると
穏やかな流れなのに、すぐに姿が遠のいていく。

毎日をもっと自覚的に生きていたいと思うのだが、なかなか。
自分の感覚器官がとらえた事象を、頭の中でうまく処理しきれていない気がするのだ。


例えば、御所の新緑を眺めていても

「新芽の緑色を見た」という視覚がとらえたことを、
それ以上の事実として認識できないでいる。
「気持ちがいいな」くらいの感覚はあるが、それ以上にはならないのだ。

 

以前の自分は、もっとこう、何かを見たときに
湧き上がる感情や、考えであふれていたのではないか
今の自分は、何か大事な感覚を失ってしまったのではないかと不安になっていた。


日々を生き抜くのに必死で、忘れないための作業と言おうか
じっくりと、毎日を振り返ることが少なくなった。
日記を書いたり、写真を撮ってアルバムを作ってみたりだとか
もうどれくらいやっていないだろう。


振り返る時間が少なくなったというのは
失敗したり、不快に思った出来事も少なくなったということでもあって
ある意味では、良いことなのかもしれない。
けれど、それは
思い出したくない事ほど無意識に思い出してしまっているだけで、
意識的に振り返っているわけではないのだ。


毎日のたわいもないこと
意識的にとどめておかなければ、消えてなくなってしまう日常のこと
そういうことを、私は丁寧に、振り返りたいと思っている。

 

 


最近、「記憶に残っていること、記憶に残していること」について
ぼんやりと考えている。

 

頭の引出しに

無意識的に入れてしまったもの

無理やり入れ込まれてしまったものと

 

「これは大事にとっておきたい」と、丁寧にしまったものとでは

同じ引出しに入っている、存在するものでも、違うと思っている。

 

では、今の私が丁寧にしまったもの、「記憶に残していること」は何だろう。

 

 

 

そんなこんなを考えていたら、桜も散り、半袖の季節になった。

あっという間にもう6月。

まぁ、充実はしているのだ。とても。
しみじみと振り返っている暇もないほどに。


時間があるから振り返って懐かしむ。


今は、きっと数十年後の私が「振り返って思い出す」かもしれない時間を生きている。

 

よどみなくするすると流れていく時間
零れ落ちていく認識
ただ私の記憶にあるのは、掌から一葉が落ちていったということだけ。

 

 

これは「記憶に残っていること」 なのか 「記憶に残していることなのか」

 

まだ分からない。

 

 

 

8月第1週-第5週目

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あっという間に過ぎて行った8月。

自由で,充実した毎日だったので,こんな日々がもっと続いてくれたらと願ってしまった。忘れないように,私の8月を書き置く。

 

 

 

 

News

・8月6日 小田急線内で男性が刃物で乗客を切りつけ,10人が重軽傷を負う。「幸せそうな女性を殺したいと思っていた。誰でもよかった。」と供述。

・8月11日~17日 日本各地で長雨 クーラーを入れずに過ごせるくらいの涼しさだった

・8月15日 タリバンアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言

・ 8月24日 東京パラリンピック開会式

 

Book

読み終えたもの

森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』(2010年/講談社文庫)

津村記久子『君はそいつらより永遠に若い』(2005年/筑摩書房

・イサク・ディーネセン『バベットの晩餐会』(1992年/ちくま文庫

アーシュラ・K・ル・グィン『風の十二方位』(1980年/ハヤカワ文庫)

 より短編『オメラスを歩み去る人々』『革命前夜』

 ・カツセマサヒコ『明け方の若者たち』(2020年/幻冬舎

 

3pegions.hatenablog.com

 

読みかけ

・マレイ・スタイン『ユング 心の地図 新装版』(2019年/青土社

 ・矢内原伊作『立ち止まって考える』(1984年/みすず書房

 

積読追加

・二宮敦人『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』 (2019年/新潮文庫)

渡辺一夫『寛容について』(1972年/筑摩叢書)

 

Movie/Drama

引きこもりを謳歌すべくNetflixを契約してみたら,凄まじい勢いで見てしまった。

忘れないうちに感想を書き留めておきたいな。

・『ロマンスは別冊で』(Netflix

・『エミリーインパリ』(Netflix

・『愛の不時着』(Netflix

・『ナビレラ』(Netflix

・『Miss.Americana』(Netflix

・『ストーリー・オブ・マイライフ~私たちの若草物語』(Amazon Prime

・『ホテルデルーナ』(BS日テレ

・『晴天をつけ』(NHK

・『おかえりモネ』(NHK

 

Words

・用悪水路(ようあくすいろ)

 二つの単語を合わせた不動産登記上の地目

 用水路:田んぼに水を引くための水路,悪水路:田んぼから水を排出するための水路

 

 ・コモンズの悲劇,アンチコモンズの悲劇

 下記の論文を読んで初めて知った。

 

 

読んだ論文・記事

・研究報告「アンチコモンズの悲劇」に関する諸問題の分析

https://iip.or.jp/summary/pdf/detail05j/17_06.pdf

「「特許の藪」が見られるIPC(藪IPC)はソフトウェアや通信などのIT分野と医薬品・遺伝子工学などのバイオ分野に集中していることが分かった。ただし、特許の藪に面している企業(藪IPCの分野に多くの特許出願を行っている企業)の知財戦略は業種によっても異なることが分かった。化学関係の企業は、保有特許のうち未実施特許の割合が多く、かつ防衛目的で保有しているものが多いことが分かった。医薬品分野においても未実施特許の割合は多いが、開放意思ののある特許割合が高くよりオープンな知財戦略をとっている。」(本橋一之 34頁)

 

「開放意思のある特許」とは開放特許(ライセンス契約の形で開放する意思のある特許)のこと。

業種での違いはなぜ生まれてくるのか気になった。さらに調べたい。

 

 

・ 論文『韓国の国家平生教育振興院の使命と機能-単位銀行制と独学学位制についてー』(鄭碩九,森利枝)

 https://www.niad.ac.jp/n_shuppan/gakujutsushi/mgzn14/no9_16_chung_no14_01.pdf

 

 韓国特許庁の知的財産学学士資格のオンライン講座のお知らせを見ていたら「単位銀行制」というワードが出てきて,調べていたら,韓国には大学などの高等教育機関に代替する教育の機会があって,大学に在籍しなくても学位が取れる制度があるらしい。

 通信教育や大学が一般向けに開講する講座を活用して,子育てや介護をしながら学ぶことを辞めずに知識を増やしていっている知人たちがいたが,皆,正規の学校教育でないからと再就職の際に履歴書に書けなくて,残念がっていた。正直なところ,適当に単位だけ揃えて卒業していった新卒よりも意欲も,学びの深さも勝っていたと私には見えた。

彼女たちのような人にとっては,この単位銀行制や独学学位制は,自分の”学習キャリア”を公的に示すことのできる良い制度だと思う。とても興味深い制度だ。

 

JETRO 日本国際貿易機構の記事

「白人人口の減少傾向への意識は全般に中立的、米シンクタンク調査(米国)」

https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/08/430e71f8fca374de.html

世代や教育水準によって回答傾向が異なるようで,「社会の意識の変化」というのは「今」を支配している年代が高齢になりやがて亡くなり,若かった人々が社会の機軸をになう世代へと新陳代謝が起こることで,少しずつ変わっていくものなのだなと思った。

 

 

・映画製作の資金調達の方法と法律

映画やアニメ製作の資金的な仕組みが分かって面白かった。金商法の適用を受ける場合もあるのね。金融庁の出している資料がとてもよかった。

『コンテンツ事業に関するQ&A』(H29年5月31日)01.pdf (fsa.go.jp)

『コンテンツ事業における資金調達について』02.pdf (fsa.go.jp)

 

よくエンドロールに「○○(←映画のタイトル)製作委員会」と出てくるので,委員会は法律上の何に当たるのかなと気になっていた。こちらの記事も参考になった。

映画やアニメの製作委員会方式とは?映画・アニメ制作における資金調達と著作権処理のしくみ | 知財FAQ

 

 

 ・夫婦別姓訴訟関連

 家族法の大御所 二宮先生の記事。

 仕事柄戸籍をみる機会がしばしばあり,旧法時代の戸籍なんかを見ていると,「入籍しました!」という結婚報告の由来が良くわかる。

現行の戸籍制度ならば,両人とも親の戸籍に入っていた人ならば,親の戸籍を抜けて(除籍)婚姻時に二人の新戸籍を作ることになる。なので,挨拶は「新戸籍作りました!」になるのかな(なんか違う)

離婚をすると筆頭者(選択した氏)でない方が,籍を抜けることになり,筆頭者が筆頭者の氏を選択して再婚する場合は,氏を変える方がその戸籍に入ることになる。

だから,現行戸籍法の下で法制度の正しい理解にのっとり「入籍しました!」と言っているのであれば,「お相手の方は再婚なの?」などとのツッコミも可能なのである。

とはいえど,結婚前に分籍して親の戸籍から抜けていることもあり,その場合婚姻時に新戸籍が作成されずにお相手が分籍したその戸籍に入ることもあるから,「入籍しました!」も初婚の挨拶として成り立ちうる。

とりあえず,結婚報告は普通に「結婚しました!」でいいじゃない!

面倒なね人ね,私。

 

少し本筋からそれるが,時たま聞く,結婚を機に苗字が変わった男性に「婿養子になったのね」というのは,早とちりで,結婚によって妻の姓を選択しただけで,妻の親と養子縁組をしたとは必ずしも言えない。

家督制度の旧法時代は男の子がいない場合に,実の娘の夫(婿)を養子にし結婚させることで婿にも相続権を発生させ,「家」(家督+財産)を存続させるという目的があった。けれど現行民法には家督制度なんて存在しないし,女性も権利能力者として財産権の主体になれる時代だ(旧法時代にだって,女戸主は認められていた。)。だから,子供に女の子しかいなくてもお婿さんを養子にまでする必要性はないのだ。

 

 

『ファンキー竹取物語』(原作:『竹取物語』) - ファンキー竹取物語(あをにまる) - カクヨム

 くすっと笑ってしまった。インターネットの海にはたまにこういうのがあるから楽しい。

 

Thinking

考えて,自分なりの意見を持ちたいと思うこと
・オリンピックは今年開催すべきだったのか

・オリンピックの今日的意義は何か

・「責任を取る」とはどういうことか

・過去の過ちはどこまで糾弾されるべきものなのか

・結婚の現代的意義と自分はどういう選択をしたいのか

 

『明け方の若者たち』何者でもない事は自由だ

 

カツセマサヒコ著『明け方の若者たち』(幻冬舎/2020年)を読んだ。

就活を終えた大学4年生から20代後半に突入する青年期の物語。

忘れない様に感想を書き置く。*1

 

主人公にとっての”マジックアワー”の始まりの頃、

彼女がMr.Childrenの『inocent world』を口ずさむシーンがある(26頁)。

最後まで読んで再読すると、この曲が、”僕のマジックアワー”の始まりとこの物語の主題を示唆しているように思う。

黄昏の街を背に 抱き合えたあの頃が胸をかすめる

              (Mr.Children『inocent world』)

                      

「彼女」と出会った頃はまだ、就職が決まって大学卒業を控えた時期。まだ夜にもなっていない黄昏だ。

曲調と歌詞は、まだ自己実現の入り口に立っていて、未来に希望を思わせる。

ただ、曲の2番目の歌詞は、入社後の「僕」の毎日そのものだ。

 

近頃じゃ夕食の 話題でさえ仕事に汚染(よご)されていて
様々な角度から 物事を見ていたら自分を見失ってた                                  

               (Mr.Children『inocent world』)

 

 

社会に出て3年目くらいの時は、私も主人公やその同期の尚人と同じように、大学時代の同期と集まれば、せっかくの食事会も、仕事の話ばかりで似たような葛藤を話していた。

 

最初から終わりの見えていた恋と、思い描いていたのとは違う仕事の毎日。

作中「こんなハズじゃなかった」という台詞が幾度となく出てくる。

 

何者にもなれていない自分。

 

青年期は、アイデンティティを確立する時期だ。その確立に大きく影響を与えるのが、人間関係と、日々の時間の大半を占める生活の糧でもある「仕事」だ。

 

自分が何者かを示すのは、案外難しい。

自分はこういう者です、と相手に説明するときに、氏名、年齢、職業をたいていの場合挙げる。スポーツ選手とか作家とか、才能が必要で、誰でもなれる訳ではないような仕事でない限り、仕事なんて生計を立てるための手段であって、自分そのものではない、なんて思っていた。

 

けれど、一日のうちで一番長い時間を費やし毎日毎日繰り返し続き、いつしか仕事が仕事以外の自分を侵食していていくようになると、自分を構成する要素の大部分になってしまって「仕事でしていること」=「自分」となってしまうようになる。

だからアイデンティティの確立には、一日の大半を費やすもの=「仕事」が大きく影響するのだ。

 

昔から、青年期の「自分は何者なのか」という問いや迷いに対する小説は、たくさんある。ただ、私が読んできた作品は、自分は何がしたいのかがわからなくて、自己の確立ができないでいるか、やりたいことは明確だけれど能力不足でなりたい自分になれていない、という登場人物が多かったように思う。

 

けれど、本作『明け方の若者たち』に出てくる主人公や尚人は「クリエイティブなことがしたい」という大雑把ではあるけれども「やりたいこと」を明確にもっていて、能力はある(と思っている)のにそのやりたいことができない、させてもらえない環境にいて「こんなハズじゃなかった」と思っている。

 

主人公「僕」は、第一志望ではなかったけれど、エントリーした大きな企業に内定して「勝ち組飲み」に呼ばれる側にいる。やりたいことはおろか、就職すらできない者たちからしたら、ぜいたくな悩みなのかもしれない。

けれど、当人にとっては、それが他人から見ればいいものでも「こんなハズじゃなかった」のだ。競争に勝ち抜いて、大きな会社に入っても、「何者か」にはなれなかった、と「僕」と尚人は思っている。

 

そんな葛藤があるうちは、まだ、「仕事」以外で自分を構成するものがあるということなのではないだろうか。

「僕」や尚人にとっては「やりたいこと」=「クリエイティブなことをやりたい自分」が、まだ自分を表す要素として、日々の仕事に侵食されずに残っているということなのだ。

 

社会人になったら何者かになれると思っていたのにとこぼす「僕」に「彼女」が言う。

「・・何者か決められちゃったら、ずっとそれに縛られるんだよ。結婚したら既婚者、出産したら母親。レールに沿って生きたら、どんどん何者かにされちゃうのが、現代じゃん。だから、何者でもないうちだけだよ、何してもイイ時期なんて」

        (カツセマサヒコ『明け方の若者たち』207頁-208頁)

 

何者かに「なる」のではなく、何者かに「される」のだ。

こう考えると、自分が何者でもないことを嘆くのは、愚かなことなのかもしれない。

ただ、どうせ社会的に「何者か」にされてしまうのであれば、「される」前に自分から「何者か」になってやりたいとも思ったりする。

 

不倫が題材になっている物語には、「不倫相手と別れて妻・夫のもとに戻る」または「離婚して不倫相手と一緒になる」という筋書きが考えられる。

この物語の結末は前者だ。だけど、選択肢として後者があるのに、「僕」はそれを提案してすがることも、「彼女」もそれを考えたりする描写はなかった。読みながら何故だろうかと疑問に思っていたが、読み直して納得した。

この台詞を言っている「彼女」は結婚している「既婚者」だ。出会った時点で、既に「何者か」になってしまっていた人なのだ。

この物語の主題は「何者かにされつつあるときに何者でもなかった時期(マジックアワー)を振り返る」ことだと私は思っているので、何者かにすでになっている「彼女」が離婚して、「別の者になる」(自己の再確立?)=「僕」とハッピーエンドというのは、主題からそれてしまう。

だから物語で「彼女」は、まだ何者かになっていない「僕」とは一緒に人生を歩けないのだ。

 

引用した上記「彼女」の台詞に対して「僕」は、「うっわー、大人すぎる。人生何週目なの」と返事をしている。

この頃が「僕」にとっては人生のマジックアワーの真っ最中でも、既に何者かになっていた「彼女」にとっては、夜明け(夫が帰国する)、マジックアワーの終わりが近づいた頃で、一足先にマジックアワーを迎えた者だからこそ言える台詞だったのだと思った。

 

物語の終盤、尚人が言う。

「でも、二十三、四歳あたりって、今思えば、人生のマジックアワーだと思うのよね。」

(中略)

「・・・結婚すりゃ夫や妻が家で待ってるっつって飲み仲間へるし、子供ができる頃にはローンや保険で苦しいし、子育て終わったとおもったら今度は親の介護で、全部終わった頃には、こっちの体力が残ってねーじゃん。オールで遊んで、明け方ダラダラと話して、翌日しんどいながらに会社に行く。あれって若いうちしかできないことだったんだよ。だから、こんなハズじゃなするた!って、高円寺の隅っこで酒飲んでたあの時間こそさ、実は人生のマジックアワーだったんじゃないかって、今になっておもうのよ。」 

        (カツセマサヒコ『明け方の若者たち』207頁-208頁)

 

主人公と尚人、そして夫のもとへ戻り主人公から去っていった彼女。皆、”人生のマジックアワー”を過ぎて、朝を迎えた「明け方の若者たち」となる。

 

物語は、主人公が転職するでも、彼女と再会してハッピーエンドを迎えるわけでもなく、ただ、彼女がいたころ、人生のマジックアワーを振り返り泣いて終わる。何か特別なことが起きて、「僕」の仕事や恋が好転するわけでもない。

それが多分、たいていの人たちにとっての人生なのだ。

 

思い描いた人生とは違う、けれど、何者でもないからこそ自由だった。

 

「それでも、振り返ればすべてが美しい」

 

本の帯に書かれた一文に全てが詰まっている。

 

 

私のマジックアワーも、きっと美しかった。

 

 

www.gentosha.co.jp

*1:本ブログ記事における歌詞の引用許諾については、こちらのJASRACのサイトをご覧ください。利用許諾契約を締結しているUGCサービスの一覧

7月第3週-第5週目

 

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7月第3週目-第5週目の雑記

 

 

記録

・7月12日 東京に緊急事態宣言発令

・7月13日 今年最初のセミの声を聴く もう梅雨が明けるね。

・7月17日 近畿・東海で梅雨明け。62日間も続いていたらしい。

 ・7月23日 東京オリンピック開会式


  

 

郵便受けの設置義務

 郵便法を調べていたら,3階以上の建物には郵便受けの設置が法的義務なのだと知った。

 郵便法施行規則(平成十五年総務省令第五号)

 

(郵便受箱を設置すべき建築物)
第十条 法第四十三条総務省令で定める建築物は、階数が三以上であり、かつ、その全部又は一部を住宅、事務所又は事業所(以下「住宅等」という。)の用に供する建築物であって、次に掲げるもの以外のものとする。
 当該建築物の出入口又はその付近に当該建築物内の住宅等にあて、又はこれらを肩書した郵便物であって特殊取扱としないものを受取人に代わって受け取ることができる当該建築物の管理者の事務所又は受付(当該事務所又は受付のある階以外の階にある住宅等にあて、又はこれらを肩書した郵便物であって特殊取扱としないものの受取を拒むものを除く。)があるもの
 住宅等の出入口の全部が、直接地上に通ずる出入口のある階及びその直上階又はその直下階のいずれか一方の階にのみあるもの
(郵便受箱の規格)
第十一条 法第四十三条の規定により設置する郵便受箱は、次に定めるところによるものとする。
 二以上の住宅等が共同して使用するものでないこと。ただし、同一の室を二以上の事務所又は事業所が共同して使用している場合は、この限りでない。
 容積が、長さ三十センチメートル以上、幅二十センチメートル以上、厚さ十二センチメートル以上であること。
 構造及び材質が、配達された郵便物を安全に保護するもので、かつ、郵便物の取出口に施錠することができるものであること。
 郵便物の差入口の大きさが、縦二センチメートル以上、横十六センチメートル以上のものであること。
 設置場所が、郵便物の配達に支障のない場所であること。
 世帯主の氏名、事務所若しくは事業所の名称(屋号その他の称号を含む。)又は室番号を適宜の箇所に明示したものであること。

 高層建物が増えるにつれ,高層階まで配達員が登って戸別配達するのは効率が悪いからということらしい。↓こちらの国会答弁書で規定の経緯がうかがえる。

衆議院議員有島重武君提出集合郵便受箱設置に関する質問に対する答弁書

(ちなみに,この衆議院議員 有島重武氏は,小説家 有島武郎氏の甥にあたる。)

 

 

ダスト・シュートと京都のホテル創世記

 上記答弁書の中に出てきた大島四丁目団地は,現役で

ダスト・シュート - Wikipediaがまだ利用されている団地らしい。外国のテレビドラマなんかに出てくるもので,日本にもあるとは知らなかった。封鎖されているだけで,古い建物には備わっていたりするらしい。

 

 

ダスト・シュートが原因で京都国際ホテルで火災があったとの記載があり,どんなものだったのか調べると,京都で初めての高層ビル火災だったが,被害は大きくならずにすんだらしい。

京都市消防局:昭和42年4月5日 中京区京都国際ホテル火災

 

ホテル火災は,ホテルニュージャパンの判例を学生時代に何度も読まされていたので,少々興味があって,観光都市京都なら江戸時代から何かあったに違いないと調べてみた。

京都で老舗のホテルと言えば,ホテルオークラ都ホテルなのだが,明治時代には,「也阿弥ホテル」というホテルが三大ホテルの一つとして存在していたそうな。二度の火災で歴史に幕を閉じてしまったらしい。

26.「也阿弥ホテル」の火事 | 京都ホテルグループ

32.「也阿弥」再度の火災 | 京都ホテルグループ

 

↑この二つの記事は,ホテルオークラなどを経営する京都ホテルグループが同社の歴史をまとめたものなのだが,出典もしっかりしているうえ,当時の京都の観光業界のことが分かってとても面白い。

 

 コロナ下のネイル

看護師さんのツイートだろうか、酸素飽和度が測れないから、コロナの間は、マニキュアやジェルネイルなどの装飾を指一本だけでもいいからしないでおいて欲しいとの投稿を見て、酸素飽和度は指で測ることを知った。

 

朝日新聞Podcast:宝塚 天満みちるさん

朝日新聞Podcastで宝塚の名おじさん役 天満みちるさんのインタビューを聞いた。

宝塚の役者さんたちがしているメイクは、一人ずつ役柄に合わせて、色合いを変えているとのこと。(天満さんは「配合が違う」とおっしゃっていました。) おじさん役は、Topスター演ずるイケイケの若い男の役とは違う顔色になるようにしているそう。久しく宝塚の舞台を見ていないので、次の機会にはメイクの細かいこだわりにも注目してみてみたい。

 

 

観たもの

・『彼女はキレイだった』(韓国ドラマ)

・『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語

 感想が長くなってしまったので、8月中に別途まとめて記録しておきたい。

・覆面歌王 

 amebaTVで韓国のバラエティ番組「覆面歌王」のJongkoo出演回を見た。

歴代王者が、この歌い方はアイドル歌手、これはロック歌手のような気がする等々コメントしていて,歌をそういう聞き方で聴いたことがなかったから,誰か分からずに聞いてみるのも面白いなと思った。

あと,電車のアナウンスのモノマネが面白く感じるのは、日本だけではないのね。

 

読んでいるもの 

『喜嶋先生の静かな世界』

大学院での生活が懐かしい。まだ半分も読み終えていないのだけれど、主人公の院試と、専攻は違うけれど、私自身の院試のための猛勉強の思い出が重なって、胸が熱くなった。

honto.jp

 

6月第4週-7月第2週目

6月第4週~7月第2週目までの間に気になったニュースについて雑感を書き置く。

 

 

 

夫婦別姓訴訟最高裁決定

注目していた一連の夫婦別姓訴訟のうちの一つについて、最高裁大法廷決定が出された。

今か今かと速報を待っていたが、すぐには判決文全文が裁判所ホームページに掲載されないので、どれだけ判決内容をすくって報道しているか、報道各社の力量の差を感じた。今回の裁判は、非訟のため公開されないから、報道各社は原告弁護団の記者会見の前に入手した裁判所から配布された概要で報道したものと思われるが、15時の弁護団による決定正本受領、16時30分の記者会見の前までに出された各社の速報の中では、この記事(夫婦同姓「不当な国家介入」 最高裁判事4人が違憲判断:朝日新聞デジタル

)が一番詳細を伝えていたように思う。

 

もう少し待てば、調査官解説や憲法学者の評釈が出てくると思うので、待っている。

 

別姓訴訟の憲法学的問題については、色々思うところが当然あるのだが、それよりも気になったのは、速報が出た直後SNS上にあげられた本件決定に対する「感想」の中に決定内容についての明らかな誤解がみられた点である。

 例えば「最高裁は、夫婦別姓違憲だと判断したから、別姓は今後も禁止」という投稿については

最高裁夫婦別姓違憲であるとは判断していない。

②別姓制度を最高裁は禁止してはいない

③別姓制度は立法によって解決すべきと判断しているから、理論上は国会の立法によって実現可能。

 というような誤解の指摘ができる。

 

 私も完全に理解できてはいないが、憲法学的知識がなくとも速報の記事まで読めばそのような誤解は生じないであろう点についての誤解が多かったように思う。誤解を招きうるような速報の見出しもいくつかあったため、見出ししか読んでいない人の誤解は致し方ないと思う反面、その誤解が解ける機会はあるのだろうか?、SNS上に感想をあげる程度にはこの問題に関心のある人々が誤解したままなのはもったいないと思った。

”世論”を形成する多くの一般の人々は、わざわざ裁判所HPから検索して決定正本全文を読み、関連判例や評釈・学説まで調べて読むまではしないであろう。みんな忙しいし、専門書は小さな書店にはおいていないし、何より高価だ。読んだうえで、この理解であっているかと議論しあう人が、どれだけいるだろうか。

私も深い議論まではまだできていない。

 

平成27年判決では、婚姻・家族制度は「国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因」によって定められると判示している。「国民感情」が婚姻・家族制度の形成に影響するならば、誤解に基づきうまれた感情では適切な制度形成の議論はできない様に思う。

SNS上の見ず知らずの人たちの誤解が気になる一方で、私自身の理解も正しいのか確認したいが、普段接している人たちと面と向かって議論するのはちょっと怖かったりする。

夫婦別姓制に賛成・反対かという議論と、判示された内容や学説の理論を正しく理解できているかを確認しあうことは別であるから、賛否を表明せずとも議論できるはずなのだが。

 

 

 

障がい児の逸失利益の算定基準/命の価値・値段

 

視覚障害を持つ女児の死亡事故についての民事賠償事件について、大阪地裁で公判が開かれている。 

被告弁護人側が、聴覚障がい者は高校卒業時での思考力や学力などが小学校中学年の水準に留まるため、逸失利益は一般女性の40%で計算すべきであるという趣旨の主張を行っていたことから、この主張は差別だとして、聴覚障がい者団体などが10万人を超える署名を集めて、大阪地裁に提出していたらしい。

聴覚・視覚障害の弁護士たちが立ち上った! 難聴の11歳女児死亡事故裁判に異議(柳原三佳) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

民事賠償事件では、健常者よりも障がい者の賠償額が低くなることから、「障害者差別だ、命に値段をつけるなんておかしい 」とよく言われている。

 

裁判実務では「損害」を、生きていれば得られたはずであろう利益(→死亡したために得られなかった利益)ととらえている。そのため、労働により収入を得られる見込みのない者の逸失利益は少なくなるのだ。

だから、年に何億も稼ぐ経営者が死亡すれば億単位の逸失利益になるし、働いて自らの力で生活を立てていくことができない者の逸失利益は当然少なくなるのだ。

 

「損害」をこのようにとらえる限りは、「合理的な差異」であるし、命そのものに値段をつけているわけではない。

 

「人はみな平等なのだから、死亡の損害賠償は同じ金額であるべきだ」と主張する人もいるが、そちらの方が、命に値段をつけているといえる。

なぜなら、仮に、算定基準などなく死亡すれば皆等しく1億円と決めていたら、我々の命は「1億円」と値段がつけられたことになるからだ。

 

だから、「損害」を”奪われた命”そのもの”ではなく、”生きていれば得られたであろう金銭的利益”ととらえているのだろうか。

 

損害の概念がこれでよいのかという疑問もあるが、本事件で争われているのは、その逸失利益の算定基準である。

これは障がいのある方だけでなく、女性の問題でもある。

男女別の平均で算出されるため、男女別にした場合、女性の平均は男性平均よりも低いくなるため、男女別ではなく男女合わせた平均を基準とすべきだとの批判もある。

 

 

女性の働き方の変化や、障がい者雇用の促進、テクノロジーの進歩で、この先今の基準がもっと合わなくなってくるように思う。

聴覚障害のある女の子が将来得られたはずの収入は健常者の40%? テクノロジーが進歩する今、算出方法はこのままでいいのか(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

 

障害者の逸失利益、健常者と同基準で算定 東京地裁判決: 日本経済新聞

 

使う物差しが変われば、おのずと結論も変わってくる。

死亡した女の子が二十歳を迎えるはずだった未来の社会状況を、裁判所はどう見るのだろうか。

裁判の行方に注目したい。

 

【参考】

『障害児死亡における損害賠償額の算定について』吉 村 良 一

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/19-56/022yoshimura.pdf

 

 

 

6月第3週目

 

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毎週メモ代わりにブログを書いていたのに、下書き保存したままだった。
6月第3週目に見たもの・読んだもの・考えた事を書き置く。

 

 杉山卓史先生「触れることの美学(前)」

京大のオンライン講座 立ち止まって考える 「触れることの美学(前)」を視聴。 

全盲とろうの方々は、触れることで事物を認識しているから、「接触を断つ」コロナ下では生活に大きな支障がでたというような話を聞いて、視聴覚に障がいのある方々の大変さに気づいていなかったことを反省した。

 

モリヌークス問題 - Wikipedia(「球体と立方体を触覚的に判別できる先天盲者が開眼手術を受けたとき、開眼した盲人は視覚だけで球体と立方体を判別できるか?」という問題) についての所で、白内障手術は紀元前にすでにあったと聞いて驚いた。凄いな。

 

・質疑応答の中で(59:28あたり)モリヌークス問題は、「科学の発展によって意義のある問題ではなくなる」という質問に対し、「経験的な事実を無視してはならないと思うが、経験的なデータを哲学の側がどう解釈するのか、一つの態度表明を迫る格好の事例であるとは思う。」という旨の回答をされていた。

証明された科学的事実(現段階では結論的には「判別できない」らしい)があって、それでもなお考える意味は何なのかと私も疑問に思っていたけれど、その事実を受け止めたうえで「見える」ということの概念的意味の探究、面白いなと思った。

 

 

 

youtu.be

 

 

RUN!BTS 140・141

KPOPアイドルBTS(防弾少年団)のバラエティを視聴。ところどころ聞き取れる単語があって、韓国語学習の成果を実感できて嬉しい。

「끝(ックッ)」(終わり!)という単語はもう絶対に忘れない(笑)

 

Weverse - Official for All Fans. Join NOW!

https://youtu.be/oK7LiJxmL84

 

・チェギチャギ

 小学校の時に、総合学習だったかで外国の文化を学ぶ授業があって、チマチョゴリを着たり、チェギチャギを作って遊ぶなどしたなと、思い出した。映像に出てきたようなキラキラしたものではなくて、輪状の金属を和紙で包んで作ったような記憶が。

 ちなみに私も3回はできてなかった。遠くに飛んでいかない様に、足首とチェギチャギ本体を紐で結ぶという邪道な遊び方してたと思う。難しいけど結構楽しかったなと、遠い記憶を掘り返してもらった。

韓国のお正月遊び | 名節(旧正月・秋夕) | 韓国文化と生活|韓国成果「コネスト」

 

 

・出張十五夜

 BTSの回で初めて見て、久しぶりにバラエティー見て純粋に笑えたので、他の回も見てみた(日本語字幕もあってびっくりした。)ら、全く知らない俳優さんたちの回でも面白かったので、このナPDさんの作る番組はもしかしたら私の好みなのかもしれない。

www.youtube.com

 

・コッヘル

キャンプ用の調理器具、「コッヘル」という名前なのね。

 

 

 

読んでいるもの

『めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード』

ずいぶん前に買って、かいつまんでしか読めていなかった本を、改めて最初から通読中。

 紹介されていたアーティストに関連して思い出したこと、調べた事を少々

・(40頁) Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス - Wikipedia)は、緑の党の結党に関与していたそうな。緑の党といえば、少し前にみた映画『帰ってきたヒトラー』で、現代にタイムスリップしたヒトラーが、「今のドイツの政党のうち良いと評価できるのは、緑の党くらいだ。」というような趣旨のセリフがあったし、ボイスは、ヒトラーユーゲントに加入していたこともあったから、緑の党はどういう思想のものなのだろうかと軽く調べてみた。(→同盟90/緑の党 - Wikipedia

 

・ドイツはいったいどういうきっかけで環境先進国になったのか、気になっていたのだが、ナチス・ドイツ以前から環境主義的なところがあって、ここにナチスファシズムが合流して環境主義を理由にして全体主義権威主義・人権抑圧などを正当化するエコファシズムにつながっていったらしい。

環境法を学んでいると、規制にあたって南北間の公平*1や民族文化の保存の問題が出てくる。これらの問題を「環境保護」の前では一切無視してよいとするとエコファシズムとなるのだ、とひとまず理解した。

緑の党は、一つの政党として、選挙で議席を獲得し、民主主義のプロセスに乗っ取って、環境保護を実現していこうとする。

 

民主主義社会においては、このやり方が適切である。

 

ただ、民主主義はあくまで多数決によって物事を決めるシステムであって、決められた物事が常に「正しいこと」「正義」であるとは限らないということを忘れてはならない。そこで、多数決で少数者の人権が不当に侵害されない様に、人権保障を定めたのが憲法である。だから、憲法は重要なのである。

 

とはいえど、憲法も多数決で変えられてしまうものなのである。

だから私たちは、学ばなければならないのだ。多数決が少数者・弱者の虐待になっていないか、この先起きえないか、状況をよく理解できるように。そして、学ぶだけではたりない。少数者の人権侵害が起きているとわかっていても何とも思わなければ、「それは間違っている」と声をあげることもないだろう。倫理観というか、他人の痛みを自分のこととして受け止められる感覚がなければ、最後の砦も機能しない。

学び、感じる心を忘れずに生きたい。

 

・ボイスの「社会彫刻」(芸術とは未来の社会を創造性によって構築していくこと)という芸術概念からすると、社会活動家は皆「芸術家」ということになるのだな。

 

Wikiには大学との訴訟で勝訴、教授に復職はできなかったけれど教室使用は許可されたと書いてあったのだけれど、どういう理論構成だったのかな? 解雇に対する訴訟ならば、通常は解雇取消、教授たる地位の確認請求とかになると思うのだけれど、これに「勝訴」したのなら教授に復職できたのでは?と疑問に思っていたら、別のサイトでは、

ボイスは1972年に当時の州文科省大臣によって芸術アカデミーの教授職を解雇されて訴訟で争っていたが、後にヨキムセンが文科省大臣に就いていた1978年に、この訴訟は和解に至った。

http://www.newsdigest.de/newsde/features/11978-joseph-beuys/

とあるので、訴訟による決着ではなく、復職は認めない代わりに教室の使用を認めるという内容の和解で終わった、という感じなのだろうか。

 

・ボイスの活動・作品をもっと見て、「社会彫刻」の思想をもう少し理解したいなと思った。次は作品集を見てみようと思う。

 

*1:『環境法BASIC〔第2版〕』32頁