「この人は私を傷つけることを意図的には絶対に言わない。」と分かっている相手の安心さと,SNSでの「外」=他人の世界との関わりについて

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気が付けば,もう6月になり,梅雨入りしていた。

室内にこもっていると,季節の感覚がなくなってしまうのね。

 

*****

 

学生の頃,外山滋比古先生の『思考の整理学』の中に出てくる,”三人会”*1に憧れて,

そんな知的な集まりをやってみたいな,丁度良い人いないかなと探していた。

 

友人の1人が同じように思っていたことが最近分かって,自粛期間中にオンラインでやってみようかという話になったのだけれど,なんやかんや私は論文や勉強で手一杯だったし,先方も自宅勤務なのに残業するくらい仕事が増えてしまったらしい。加えて,三人会なのにもう一人が見つからず,一度も開催されないまま自粛期間が終わってしまった。

元より,お互いの専門分野が同じだから,お互いの望んでいたような知識の広がりのある会にはできなさそうな気がしていたので,まぁ,いいかな。

 

***

 

それでも,やっぱり,知識を深め,見識を広げる機会は欲しいと思っていて,

自分の専門とは違う分野の人,バックグラウンドの違う人と,もっとお話してみたいという思いは強い。

 

お話することまでいかなくとも,せめて,少しでも他の人が考えていることを知りたいと思って,SNSを開いてみる。

 

SNSで,全く知らない人の文章を読んで,「あぁ,こういう考え方もあるのか」と視点を広げるきっかけにはなっているけれど,深く掘り下げて理解したり考えるために,投稿者に質問するまでには至っていない。

特にセンシティブな問題*2ほど,社会を構成する一人の人間として,もっと深く理解したい。

ある程度までは文献で学ぶことはできても,人がどう感じているのかは,生身の人間を相手にしないと分からない。

 

でも,センシティブな問題に限らず,

見知らぬ人,大して親しくもない人に,質問はおろか賛辞ですらおくることは,私には難しい。

相手の状況が分からないと,受け取り方が読めないので言葉を選ぶのも大変だ。

一対一のやり取りではなく,第三者も目にする開かれたコミュニケーションの場では,さらに,その外野の想定しきれない人たちの受け取り方にまで気を遣う。

 

そうすると,凄まじく気疲れしてしまい,自然とよく知っている身近な人とだけの閉じたやり取りになる。上手く伝えられなくて相手を怒らせてしまっても,また顔を合わせるから多少は修正が利くし,「どうしてそういうことを言うの?」「どういう意図での発言ですか?」と怒ったり泣いたりする前に尋ねることができる。

 

議論で生じるたいていのトラブルは,言い方が気にくわないだとか,誤解や共有している事実や前提が違ったりすることによって生じる。

相手に合わせた話し方を選択したり,適宜質問して,共有している事実とそうでない事実を整理し説明できれば,そこまで不快にならずに議論ができるのだが,初対面の人に突然言葉を投げられると,そういった仲間内ではできる議論のプロセスがうまくできなかったりする。

 

 

SNS上の議論を見ていると,明らかに相手を攻撃する意図でなされた発言を目にする一方で,悲しいことに,悪意がなくとも,(むしろ大事に思っている)人を傷つけたり不快な思いをさせてしまう失敗をよく見る。

「世の中の諍い事の多くは,悪意だけでなく善意から生まれることもある」と誰かが言っていたけれど,*3

本当にその通りだと思った。皆が皆,誰かを傷つけようと思っているわけではない。

SNS上ではまだリプライやコメントの類をしたことはないが(勇気がない),日常の会話の中で私がした失敗も,意図的に傷つけようとして発したものではなかった。

 

それが,自分の無知や考えの浅さによるものなのか,配慮が足りないのか,言い方の問題なのか,もしくは相手がその言葉を正しく受け取れる心理状況になかったか。コミュニケーションの失敗の原因がどれなのかは,指摘されないと分からなかったりする。

(そもそも失敗してることにすら気付けないことも多い。)

 

 

私の狭い世界の中ではあるけれど色んな事を見てきて,失敗して,なんとなくわかってきたことは,

「この人は私を傷つけることを意図的には絶対に言わない。」と分かっている相手の発言だと,その発言によって嫌な思いをしてもあまり傷は深くないし,相手を悪く思ったりもしないということだ。

多分,失敗の原因が上にあげたどれかだろうと推測できるし,それを問うてみることができる関係にあるからだと思う。そういう人とのコミュニケーションはどこか安心感がある。

 

SNS上の見知らぬ他人との会話では,それが悪意によるものなのか善意の失敗によるものなのか,判別がつきにくい。善意で発した言葉に対して「傷ついた」といわれた側は,自分を悪者呼ばわりされたように思ったのか,凄まじい反論をしていたりする。スタートが善意なだけに向かった方向が攻撃的で,部外者も見当違いなヤジを飛ばし始めてどちらかがアカウントを消すという様な終わり方をするのを見るのは,実に悲しい。

他人に投げつけられた悪意にあふれた言葉を,SNSに限らず,ワイドショーなんかで日常的に目にしているせいか,(善意で発せられたかもしれない言葉にも)反射的に完全悪意と受け取ってしまったりもする。だから,時たまインターネットもTVもつながらないところでひっそりと暮らしたいと思ったりする。

 

生きずらい世の中だ。他人に害を与えないなら自分の世界にこもりきること(=他人をシャットアウトすること)は,自分を守るためにも悪いことではないと思う。

 

けれど,「外」(=他人)の世界を全く知らない,無知でいることは,いけないと感じる出来事が立て続けに起こっている。

「外」=他人が何を感じ何を思って生きているかに無関心でいられるのは,自分と世間の価値観が重なり合う部分が多少なりともあって,その安全地帯にいるからだからじゃないだろうか。

ひきこもることが許されているうちはいい。

抑圧は自分の世界でひきこもって安心して暮らすことすら許さない。

いつ他人事が他人事でなくなるか。完全なる「外」の遮断は、それにも気づくことができなくなる。

 

近しい人とだけの会話では,世界の広がり方は小さい。むしろ,お互いが肯定しあった安全地帯に入り浸って,自分たちの手で世界を狭くしている場合もある。

 

SNSは難しくて怖い世界だ」と思う反面,「他人」という自分の「外」の世界を垣間見ることができる一つの大事なツールだ。(見せているのは、その人のほんの一面だけに過ぎないのだけれども。)

 

どうしてこういう発言になったのか,何故このような批判が起きているのか,発信側の問題なのか,受け取り手の問題なのか。見て,聞いて,考えて,原因を理解して試行錯誤しながら改善していけば,もう少しみんなが生きやすい空間になるかもしれない。

 

 

大なり小なり,かかわらなくても生きていける不愉快な出来事*4に,あえて目を向け続けることは,正直に言うとしんどい。

 

けれど,今私が,高等教育を受けられて,選挙に行けて,堂々と好きな服を着て何かを恐れることなく公道を歩けているのは「当事者じゃないし,かかわらなくてもとりあえず今は生きていける不愉快な出来事」に関心を持っていてくれた,歴史に名前も残らない一般の人たちのおかげでもあると思っている。

 

実際の大きな行動や発言に出なくとも,身近な人同士で少しでも話題に上がれば,考えるきっかけになる。もしかしたら,考え方も変わるかもしれない。そういう小さなつながりが,個人の価値観を変えていき,やがて社会の(世間の)価値観を変えていくのだと思う。

 

*****

 

物理的にも多分心理的にも、うちにこもった1カ月半。物理的にこもらなければならない日々に戻らないことを祈りつつ,まずは「外」の世界にも目を向けることを忘れないで生きたい。次には,身近な人たちともっとうまく議論できるようになりたい。

そしていつかは,SNS上でも安心して議論できる人ができたらいいなと思う。

 

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

今週のお題「外のことがわからない」

*1:専攻の異なる3人の友人が集まり、自分が次に書こうとしている論文について披露して感想を言い合ったり雑談する会

*2:ここでいう「センシティブな問題」とはTwitter社の定める内容(https://help.twitter.com/en/rules-and-policies/media-policy)とは少し違って、政治や人種・性別の問題から個人の内面の話など、雑に軽く扱ってはいけないものという広い意味で「センシティブ」という言葉を用いている。

*3:誰の言葉だったか気になって探してみたけれど見つけきれなかった。昔つけていた読書ノートのメモによると、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に「世の中のいざこざの因になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。」という一文があるので、もしかしたらこの一文を私が覚え間違えていたのかもしれない。

*4:「不愉快な」という表現にはかなりひっかかりがあるのだけれど、適切な言葉が見つからない

拝啓、鴨川を愛する皆さま

 

 

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京都の5月の始まりは、床開きから始まる。

 

4月の下旬には、鴨川沿いの店店が、川床の用意を始めるところが見られる。

 

昔ながらの料亭には、男性の板前さんたちがいるからか、床に敷く畳を運ぶ作業もスムーズだ。

一方で、個人経営の小さな旅館の場合、男手が少なくて、女将さんやアルバイトの仲居さんがなかなか大変そうに用意をしていたりする。

 

連休に入る直前の鴨川を歩いていると、そんな場面が見られたりした。

 

夕方になると、明かりがともり、にぎやかになり始める。

名物「鴨川等間隔カップル」が、少しいい雰囲気になる時間。

 

四条大橋三条大橋付近の河原では、酔い覚ましに風に吹かれている人や

学生サークルが輪になって何やら叫んでいたり。

川床の一番川に近い席のお客さんは、道行人とたまに目が合ってしまったりする。

 

木屋町通りを歩くと、時折、舞妓さんや芸妓さんがお店に入っていく姿が見える。

 

鴨川のすぐ隣を流れる高瀬川は、静かに夜の街の明かりを映す。

 

7月の祇園祭に向かって、ゆるりと風が吹く。風にのって笛太鼓の音が届く…

 

 

 

ーーー

この景色を、風を、音を、

京の街は繰り返してきた。

 

 

今年の床開きは、静かだった。

 

今年も、同じように見えるものと思っていた。

 

川床ありて京のせせらぎ変わらざる -百合山羽公

 

今の鴨川に、今までのような川床の姿はない。

けれど、鴨川は、変わらず流れている。季節も、変わらず流れている。

 

 

 

拝啓 鴨川を愛する皆さま

 

生きて、また川床で飲みましょう

 

             敬具

 

ドーナッツを投げる

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今年の4月の始まりは雨であった。


「どんなに嵐が吹こうとも,雲の向こうはいつだって晴れ」との言葉を引用して

「いつかは晴れると信じて頑張ろうよ」と人は励ます。

 

そう信じて耐えるしかないことはよく理解している。

 

でも


違うんだ,「今」晴れて欲しいんだ。

いつかじゃなくて晴れて欲しいのは「今」なんだ。

と、こちら側の人間はいつも思っている。


どんな状況でも「うん、元気!」としか答え方を知らない人に

「元気?」と尋ねるのは酷ではないか?


潰れかけそうな毎日を必死に耐えている人に

「頑張ってね」

と言うのは、もう十分に頑張っているから何か違うし、

頑張らなきゃ生き残れない、先に進めないフィールドにいるのに、

「頑張らなくていいんだよ」

と言うのは「もう諦めたら?」と勧めているようにも聞こえてしまう。

 

 

違う、私が伝えたいのはそうじゃなくて

 

 

と、いつまでもぐるぐる言葉を探して送信ボタンを押せず終わる。



今まで沢山励まして貰ってきたのに、

間違うのが怖くて、私はどう人に言葉をかけて良いか分からない。

 

 


迷いに迷って,私はとりあえず「おやつ食べよう」と言う事にした。

 

 

当たり前に繰り返してきた誰かの、私の、毎日が、

突然終わるかもしれないと感じる今に、何も言わずに終わるのはあまりにも切ない。

 

以前から困ったらとりあえずおやつ!おやつ!と言っていたけれど,

今日からはもっと色んな願いのこもった「おやつ食べよう」だ。


こんなご時世なので,一緒におやつタイムはできないけれど,

今日も明日も心の中で全力でドーナッツを投げ続けるから,キャッチして下され!

 

届いていなかったら,投げるのが下手すぎて,

京都タワーにでも引っかかっちゃってるんだと思って!

 

練習する。


私の、あなたのところが、雨でも嵐でも、届けられるように

 

頑張るから。