6月第1週・第2週

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 少しまとまって、ゆっくり時間をとることができたので、ノートやクラウドに保存してあった大量のメモを整理した。

 せっかくなので、残しておくことにしたメモの一部をここに書き置く。

 

  • 心に残った詩

フォルテとは遠く離れてゆく友に「またね」と叫ぶくらいの強さ

              千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』

進路室は海[22]この世界中から大きな拍手を : 連載/コラム : 読売新聞教育ネットワーク

 シンプルに、ものすごくまっすぐに情景が浮かんできて、いいなと思った。気になって調べてみると、作者の方は、高校の先生をされておられるようで、コロナ下の卒業式について書かれたコラムを見てますますこの詩にひきつけられてしまった。

 

www.toibito.com

  「ジェンダーバックラッシュ」というワードの意味を検索していて見つけた記事。

 

 何かを議論するときには、議論する者が同じ事実を共有していなければ、互いの事実に対する評価が妥当か否かを判断することができない。大学で論文を書く際に教えられたことは「何の事実をどういう基準で評価したのか、事実と評価は分けて書きなさい」ということだったから、事実の適示は必須と思っている。

 限られた文字数で、気楽に使うSNSでは、論文と違って、いちいち事実を全て羅列することなしに、評価だけ「感想」として出されている。だからか、SNS上では、前提にしている事実が投稿者と閲覧者で異なったりして、まともな議論にならずにただの罵りあいになっているのをよく見かける。

 誤解の発生が少ない表現を見つけることを、個人的探究テーマにしているので、どういった表現が、誤解のもとになったのか、「誤読の原因」を探る目的で、何やら焦げ臭い投稿のコメントやリプライ欄を時たま覗いたりしていたのだが、分かったのは、誤読も何も、ただ暴言を吐きたいだけの人、差別したくて仕方がない人も世の中にはいるのだということ、事実はどうだっていい人もいるのだということだった。

バックラッシュ派は、開かれた合理的議論を行うために必要なルールに関して、重大なルール違反を犯しました。何のエビデンスもない、まるでロジカルでもない言説であっても、しつこく言い続けていれば、国民にそれが事実だと信じさせることができる。そのことにかれらは気づいたのです。これがフェイクニュース陰謀論がはびこる今日の状況へとつながっていることは、もはや言うまでもありません

 私は学術が絶対だなどとは思っていません。学術にも多くの誤りがあります――女性に対するダーウィンフロイトの学説がそうであったように――。しかし学術にはその誤りを議論によって正していくシステムがあります。学術研究者は、自分の研究に関連する先行研究を必ず全部読むように教育されます。そうすることで先人の研究成果を――ときに批判的に――継承し、誤りがあれば正し、そこに自分が何を付け加えることができるのかを考える。そのようにして過去を今につなげ、今を未来につなげていくことが学術の歩みであり、さらに言うならば、人類の歩みなのではないでしょうか。何が正しいのかを決めることは決して容易ではありません。時代や地域によって結論が異なることもあるでしょう。しかし、いや、だからこそ、その「正しさ」を決める議論における最低限のルールは、何があっても守っていかなければならないのです。

 自分が、最低限のルールを破らないようにすることはもちろんだけれども、”何のエビデンスもない、まるでロジカルでもない言説”を事実であると信じない様に、しっかりと見定められるようになりたい。
 そのためには、日々、学ばねば。そう改めて思った。

 

 ランダムであてられた住所にハガキを出してみるというもの。

古いメモに「ポストクロッシングをやってみる」というのがあったので、登録してみた。最初の宛先はオランダの森の中に住んでいる方みたい。

 私は、手紙を書くのが好きなのだけれど、最近はLINEが主流だし、みんな忙しくてお手紙は負担に思うかなと思って、控えている。送る相手を思いながらハガキやカードをお店で選ぶ時間がとても好きなので、ポストクロッシングで、またカード選びの愉しみができた。

Postcrossing/ポスクロとは?世界中の人との文通を楽しもう! | かよこぶろぐ。

 

  • その他最近知ったこと

 ロックとロックンロールは違うものらしい。

 クラシックの発展の流れは、多少わかる様になってきたけれど、未だにポップもロックもパンクもディスコもよく分かっていない。この辺りを学んでみたいのだけれど、どの本読んだらいいのかな。

 

  • 観た映画

 インド映画『The Lunchbox』(2013年:邦題『めぐり逢わせのお弁当』)を観た。インド映画といえば、歌って踊ってミュージカル~な、にぎやかなものしか見たことがなかったけれど、この作品は、本当に静かで脚本と役者さんで魅せる映画だった様に思う。終わり方も良かった。

 お弁当の誤配送から始まる物語なのだけれど、まず冒頭30分くらいは、会社員のランチタイム事情や日印の満員電車の様子の違い等々、驚きがいっぱいだった。

 作中のインドのお弁当配達システムは、ダッバーワーラー - Wikipediaというらしい。

各家庭で調理したお弁当を配達するビジネスが出来上がった理由の一つが、「下位のカースト出身者が作った食事を食べることにも抵抗があったため」というもので、富裕層が家事使用人として雇っている人たちは、どの身分の人たちなのだろうかと、疑問に思った。同じカーストの人の作ったものでない限り食べないとすると、上流階級でも女性は家事労働から解放されないのかな、などと思ったり。少々調べてみたい。

 

 上の階に住む、イラのおばさんは、声だけで一切姿が出てこないのは何故なのかなと思っていたら、amazonのレビューによると、同じ家にいるのに携帯ばかり見て会話のない夫と、顔を合わせないけれど心の通じ合っているおばさんの二人を、イラの家の中で対比させることで、お弁当文通相手のサージャンもまた、おばさんと同じように、顔を合わせないけれど心の通じ合う相手として描いているらしい。

 映画を見ていて、「何故?」と思うことが出てきても、なかなか答えを自分で出せないので、映画を見た後は、いろんな人のレビューを観て、「視点」の勉強をしている。

 

youtu.be

 

次にインド映画を見るなら『あなたの名前を呼べたなら』を観てみたい。

 

 6月に入ってから、予定通り韓国語の学習をスタートした。最初は、ハングルの基本文字の読み書きを覚え、文法の基本事項をひととおりさらっと流した。キクタン韓国語(初級編)の例文と訳をノートに書き写し、発音のカナ書き、助詞や活用形などを書き足していく、という方法で取り組んでみた。

 ハングルの読みがまだ定着していなかったのだけれど、この方法でやっていくうちに、いつの間にか、単語の意味は分からなくても読みだけはできるようになってきた。

 2週目もこの感じで続けていきたい。

 

 どうでもよいのですが、「ポムポムプリンは、春春プリン」などとよくわからないフレーズが頭に降ってきて、「そうだね、確かに彼の誕生日は4月、春だったね。」などど頭の中の誰かがつぶやいていた。※韓国語で春は「봄」(ポム)。

 

 

2020 certainly existed

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「1年前の今日」と、写真のアプリから通知がきて、iPhoneをひらいてみる

 

去年の春は、SF小説の世界に入り込んでしまったのか、というような事態の真っ最中

空白というか、すっぽりと、抜け落ちたような感じがしていたのに

iPhoneの中には、その日に食べたものや、飾っていたお花、空、検索した資料のスクリーンショット、買い物メモなんかの写真がたくさん残っていた

 

確かに、私の2020年の春は、生活は、存在したのだ

 

そう気が付いて、少し嬉しくなった

 

何より、日々の生活が楽しそうなのだ

 

自分の姿が写っている写真は一枚もないけれど、なんとなくこの写真を撮っていた私は、ニコっと笑顔だったに違いないと思えるのだ

 

まだ、たいした長さではないけれど、

思えばずっと全速力で走ってきた人生だったから、強制的に一時停止させられて

「私の足を止めないで!」とコロナに怒る反面、

どこかで、ボロボロで疲れ切った私を止めてほしいと思っていたのかもしれない

 

だからか、私はこの強制一時停止をすんなりと受け入れた

 

以前は、作った料理の写真なんか撮ることもなかった

(時間に追われすぎて、もはや作りながら食べていた)

毎日通勤する道も、朝は速足で通り過ぎ

帰りは重い資料の入ったバックや、買い物袋で両手がふさがって

道に咲く花や空を美しいと思っても、カメラを向けることはなかった

 

それが、去年の春以降

そういう自分の日常の切り取られた一瞬が、たくさんiPhoneの中に納まっていた

 

確かに、私の日常は存在したのだという実感とともに

私自身が少しずつ、大事に毎日を生きるように変わっていている感じがした

 

先の見えない将来への不安は尽きないけれど、

確実にある今を、愉しんでいるし、愉しみたい

 

 

心に平安をもたらすことができるのは自分しかいない

   ―ラルフ・ウォルドー・エマーソン 『自己信頼』―

 

 

スクロールしながら、去年の自分に励まされ

私の2021年の6月がスタートした 

 

大丈夫、こんなふうに、私は日々を楽しんでいたのだから、明日もきっと大丈夫

『言葉にできない想いは本当にあるのか』

書店で見かけて タイトルに惹かれた買った一冊。

 

言葉にできない想いは本当にあるのか (単行本)いしわたり淳治/筑摩書房

 

脳内では、オフコースの「ららら らら ららら 言葉にできない~♪」が流れていた。

 

表題の「言葉にできない想いは本当にあるのか」という問いは、冒頭の「はじめに」で、恋人に「愛している」と伝えるときを例にして、作詞家である著者が答えをだしていた。

私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。 (4頁)

そんな風に、私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする。・・・(中略)・・・事務的な連絡だけならば正確に言語化できていると言えるのかもしれないけれど、とかく「感情」という目に見えないものを言語化しようとすると、「言葉」という道具は意外と不便な部分が多く、それこそ「言葉にできない感情 」だらけではないかと思う。(5頁)

 

著者も書いている通り、日常のなかにたくさんある「言葉にできない感情」を、うまくとらえた表現を見つけたりすると、とても嬉しい。

テレビをあまり見ない私にとっては、本やTwitterがそんな喜びを与えてくれる場所だ。

 

著者が気になった言葉を取り上げたこのエッセイ集には、そんな喜びが詰まっていた。

 

初読の感想を少し書き置く

 

瑛人のヒット曲『香水』を題材に、作詞における視覚・聴覚・嗅覚・触覚的表現の取り入れられ方についての考察は、とても面白かった。

 

  • 日によります(17頁)

なるほどな、私も使っていきたいなと思った。

 

  • ギガ放題(23頁)

世の中に「携帯〇〇」は沢山あるのに携帯電話だけ「携帯」といって電話機をさすのもおかしなことだという著者の指摘に、「ですよね!ですよね!」と、意地になって「携帯」と略さずに「携帯電話」と言っていた全私が賛同していた。

少し話題からずれるが、携帯電話やスマートフォンで写真を撮ることを「写メを撮る」という表現をする人が周りに結構いる(30代後半より上の世代)のだが、これもひっかっかりのある表現だ。

カメラ機能付き携帯電話で撮影し、メールに添付する写真のことを「写メ」と呼ぶものだと思っていたので、「写真を撮ってメールで送る」一連の行為を「写メを撮る」という言葉でまとめているならば、理解はできるのだが、「メールで送る」行為を予定していない写真を携帯電話で撮影することを「写メを撮る」と表現するのを聞くと、ぬっ、と一瞬思ってしまう。つくづく面倒くさい私である。

 

  • これからはじめてユーミンを聴ける幸せな人たち (46頁)

若い頃は「知らない」というのが恥ずかしいことのように思えて、手当たり次第に音楽や映画をあさっていたけれど、今は、知らないことはむしろ楽しみなことだと思うようになった。

まさに、今の私は「知らない」ということが恥ずかしいというか、「知らない」ということに負の感情を持っていて、とにかくいろんなものを詰め込みたがっている。学べば学ぶほど、調べれば調べるほど、知らないことが増えていって、少々疲れていた。

「知らない」ということをポジティブにとらえるこの一文に、私は少し救われた気がする。「知らない」ということは、これから新しいことを知るという楽しみが残っているということで、必ずしも「足りない」ことではないのだなと思った。

 

  • 燃やすしかないゴミ (67頁)

短いエッセイだけれども、とても印象に残った。

 

  • ちょっと変な思い出として残したい (138頁)

思うところがあったので、後日改めてBlogに書き残したい。

 

  • だから毎日面白い、イエイ! (162頁)

「私、この前〇〇行ったじゃないですか~」との友人Aの話はじめにいつも「知らんがな」と突っ込みを入れる友人Bがいる。こういう話し方をする人と接続詞始まりの歌は”「ご存じ、私」という謎の圧のようなものを感じる”と書いていた。

「ご存じ。私」という表現がぴったり過ぎて感動した。友人Bは「ご存じ、私」圧を「知らんがな」波で押し返しているのだろう。

 

  • 切りすぎた前髪 奈良美智の絵だ (203頁)

ラブソングというのは、極端な言い方をすれば”他人の恋バナ”にすぎない。興味もないのに一方的に聞かされる赤の他人の恋バナは退屈に感じるものである。そのため、歌詞でもなるべく聞き手に興味を持ってもらえるように、仕掛けを作る必要がある。 

 瑛人の『香水』ついての考察のエッセイと合わせて読むと、作詞の奥深さを感じる。

曲の中に気になったワンフレーズがあると、歌詞の解説Blogを検索して読んだりするが、「あぁ、そうなのか!」と思えるような上手な解説のできる人は、この作詞家によってちりばめられた「仕掛け」に気付ける人なのだろうと思った。

歌詞の中に「調べる」という自主的な行動を持ち込むことで、さらに聞き手の参加意識は高まる。

という考察にも、なるほど…‼とひたすら思った。

 

(余談)

白地に黒文字のタイトルと著者名だけのシンプルな表紙も良かった。多分、これくらいシンプルでなかったら、小田和正氏は私の脳内で歌ってくれはしなかった。

 

 

言葉にできない想いは本当にあるのか (単行本)

言葉にできない想いは本当にあるのか (単行本)

 

 

季節を箱に詰める

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季節を生活に取り込めている人は,とても素敵だなと思う

 

寒くなったらマフラーを出したりお鍋を食べてみたり

一応は季節に「対応して」暮らしているわけだけれども,

その季節季節だからこそできることを

自分から愉しみに手を伸ばしている感じがとても良いのだ

 

今は,花も野菜も年中手に入る時代だ

けれどもやっぱり”旬”というものがあって

その時期の美しさ,美味しさというものを感じられたらいいなと

 

今年はせめて,一歩遅れてからでもいいからと,和菓子とお花を定期的に買うことにした

 

カレンダーに,季節の食べ物や花の名前を書き込む

1月は,花びら餅と七草がゆ,そして水仙

 

 

ここ何年も,七草がゆも節分も,お花見もお月見も

「もうすぐだなぁ」とカレンダーを見ながら気が付いていても

いつの間にか「その日」は終わっていて,結局何もしないままで終わってしまっていた

 

 

 

こういう”なくてもなんとかなる”ものは

忙しくなると真っ先に切り捨ててしまっていた

 

けれど,こういうものを切り捨て続けてきた結果,

自分にぽっかりと穴が開いた,と言おうかなんと言おうか

自分が中身のない空箱になったような気がした

 

これからは,この空箱に季節を詰め込んでいきたい

大事にしまって,時々覗いて

 

いずれは私の中で美しいアンティークになる

 

そんな日を楽しみに

花びらもちをほおばる

 

「この人は私を傷つけることを意図的には絶対に言わない。」と分かっている相手の安心さと,SNSでの「外」=他人の世界との関わりについて

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気が付けば,もう6月になり,梅雨入りしていた。

室内にこもっていると,季節の感覚がなくなってしまうのね。

 

*****

 

学生の頃,外山滋比古先生の『思考の整理学』の中に出てくる,”三人会”*1に憧れて,

そんな知的な集まりをやってみたいな,丁度良い人いないかなと探していた。

 

友人の1人が同じように思っていたことが最近分かって,自粛期間中にオンラインでやってみようかという話になったのだけれど,なんやかんや私は論文や勉強で手一杯だったし,先方も自宅勤務なのに残業するくらい仕事が増えてしまったらしい。加えて,三人会なのにもう一人が見つからず,一度も開催されないまま自粛期間が終わってしまった。

元より,お互いの専門分野が同じだから,お互いの望んでいたような知識の広がりのある会にはできなさそうな気がしていたので,まぁ,いいかな。

 

***

 

それでも,やっぱり,知識を深め,見識を広げる機会は欲しいと思っていて,

自分の専門とは違う分野の人,バックグラウンドの違う人と,もっとお話してみたいという思いは強い。

 

お話することまでいかなくとも,せめて,少しでも他の人が考えていることを知りたいと思って,SNSを開いてみる。

 

SNSで,全く知らない人の文章を読んで,「あぁ,こういう考え方もあるのか」と視点を広げるきっかけにはなっているけれど,深く掘り下げて理解したり考えるために,投稿者に質問するまでには至っていない。

特にセンシティブな問題*2ほど,社会を構成する一人の人間として,もっと深く理解したい。

ある程度までは文献で学ぶことはできても,人がどう感じているのかは,生身の人間を相手にしないと分からない。

 

でも,センシティブな問題に限らず,

見知らぬ人,大して親しくもない人に,質問はおろか賛辞ですらおくることは,私には難しい。

相手の状況が分からないと,受け取り方が読めないので言葉を選ぶのも大変だ。

一対一のやり取りではなく,第三者も目にする開かれたコミュニケーションの場では,さらに,その外野の想定しきれない人たちの受け取り方にまで気を遣う。

 

そうすると,凄まじく気疲れしてしまい,自然とよく知っている身近な人とだけの閉じたやり取りになる。上手く伝えられなくて相手を怒らせてしまっても,また顔を合わせるから多少は修正が利くし,「どうしてそういうことを言うの?」「どういう意図での発言ですか?」と怒ったり泣いたりする前に尋ねることができる。

 

議論で生じるたいていのトラブルは,言い方が気にくわないだとか,誤解や共有している事実や前提が違ったりすることによって生じる。

相手に合わせた話し方を選択したり,適宜質問して,共有している事実とそうでない事実を整理し説明できれば,そこまで不快にならずに議論ができるのだが,初対面の人に突然言葉を投げられると,そういった仲間内ではできる議論のプロセスがうまくできなかったりする。

 

 

SNS上の議論を見ていると,明らかに相手を攻撃する意図でなされた発言を目にする一方で,悲しいことに,悪意がなくとも,(むしろ大事に思っている)人を傷つけたり不快な思いをさせてしまう失敗をよく見る。

「世の中の諍い事の多くは,悪意だけでなく善意から生まれることもある」と誰かが言っていたけれど,*3

本当にその通りだと思った。皆が皆,誰かを傷つけようと思っているわけではない。

SNS上ではまだリプライやコメントの類をしたことはないが(勇気がない),日常の会話の中で私がした失敗も,意図的に傷つけようとして発したものではなかった。

 

それが,自分の無知や考えの浅さによるものなのか,配慮が足りないのか,言い方の問題なのか,もしくは相手がその言葉を正しく受け取れる心理状況になかったか。コミュニケーションの失敗の原因がどれなのかは,指摘されないと分からなかったりする。

(そもそも失敗してることにすら気付けないことも多い。)

 

 

私の狭い世界の中ではあるけれど色んな事を見てきて,失敗して,なんとなくわかってきたことは,

「この人は私を傷つけることを意図的には絶対に言わない。」と分かっている相手の発言だと,その発言によって嫌な思いをしてもあまり傷は深くないし,相手を悪く思ったりもしないということだ。

多分,失敗の原因が上にあげたどれかだろうと推測できるし,それを問うてみることができる関係にあるからだと思う。そういう人とのコミュニケーションはどこか安心感がある。

 

SNS上の見知らぬ他人との会話では,それが悪意によるものなのか善意の失敗によるものなのか,判別がつきにくい。善意で発した言葉に対して「傷ついた」といわれた側は,自分を悪者呼ばわりされたように思ったのか,凄まじい反論をしていたりする。スタートが善意なだけに向かった方向が攻撃的で,部外者も見当違いなヤジを飛ばし始めてどちらかがアカウントを消すという様な終わり方をするのを見るのは,実に悲しい。

他人に投げつけられた悪意にあふれた言葉を,SNSに限らず,ワイドショーなんかで日常的に目にしているせいか,(善意で発せられたかもしれない言葉にも)反射的に完全悪意と受け取ってしまったりもする。だから,時たまインターネットもTVもつながらないところでひっそりと暮らしたいと思ったりする。

 

生きずらい世の中だ。他人に害を与えないなら自分の世界にこもりきること(=他人をシャットアウトすること)は,自分を守るためにも悪いことではないと思う。

 

けれど,「外」(=他人)の世界を全く知らない,無知でいることは,いけないと感じる出来事が立て続けに起こっている。

「外」=他人が何を感じ何を思って生きているかに無関心でいられるのは,自分と世間の価値観が重なり合う部分が多少なりともあって,その安全地帯にいるからだからじゃないだろうか。

ひきこもることが許されているうちはいい。

抑圧は自分の世界でひきこもって安心して暮らすことすら許さない。

いつ他人事が他人事でなくなるか。完全なる「外」の遮断は、それにも気づくことができなくなる。

 

近しい人とだけの会話では,世界の広がり方は小さい。むしろ,お互いが肯定しあった安全地帯に入り浸って,自分たちの手で世界を狭くしている場合もある。

 

SNSは難しくて怖い世界だ」と思う反面,「他人」という自分の「外」の世界を垣間見ることができる一つの大事なツールだ。(見せているのは、その人のほんの一面だけに過ぎないのだけれども。)

 

どうしてこういう発言になったのか,何故このような批判が起きているのか,発信側の問題なのか,受け取り手の問題なのか。見て,聞いて,考えて,原因を理解して試行錯誤しながら改善していけば,もう少しみんなが生きやすい空間になるかもしれない。

 

 

大なり小なり,かかわらなくても生きていける不愉快な出来事*4に,あえて目を向け続けることは,正直に言うとしんどい。

 

けれど,今私が,高等教育を受けられて,選挙に行けて,堂々と好きな服を着て何かを恐れることなく公道を歩けているのは「当事者じゃないし,かかわらなくてもとりあえず今は生きていける不愉快な出来事」に関心を持っていてくれた,歴史に名前も残らない一般の人たちのおかげでもあると思っている。

 

実際の大きな行動や発言に出なくとも,身近な人同士で少しでも話題に上がれば,考えるきっかけになる。もしかしたら,考え方も変わるかもしれない。そういう小さなつながりが,個人の価値観を変えていき,やがて社会の(世間の)価値観を変えていくのだと思う。

 

*****

 

物理的にも多分心理的にも、うちにこもった1カ月半。物理的にこもらなければならない日々に戻らないことを祈りつつ,まずは「外」の世界にも目を向けることを忘れないで生きたい。次には,身近な人たちともっとうまく議論できるようになりたい。

そしていつかは,SNS上でも安心して議論できる人ができたらいいなと思う。

 

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

今週のお題「外のことがわからない」

*1:専攻の異なる3人の友人が集まり、自分が次に書こうとしている論文について披露して感想を言い合ったり雑談する会

*2:ここでいう「センシティブな問題」とはTwitter社の定める内容(https://help.twitter.com/en/rules-and-policies/media-policy)とは少し違って、政治や人種・性別の問題から個人の内面の話など、雑に軽く扱ってはいけないものという広い意味で「センシティブ」という言葉を用いている。

*3:誰の言葉だったか気になって探してみたけれど見つけきれなかった。昔つけていた読書ノートのメモによると、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に「世の中のいざこざの因になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。」という一文があるので、もしかしたらこの一文を私が覚え間違えていたのかもしれない。

*4:「不愉快な」という表現にはかなりひっかかりがあるのだけれど、適切な言葉が見つからない

拝啓、鴨川を愛する皆さま

 

 

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京都の5月の始まりは、床開きから始まる。

 

4月の下旬には、鴨川沿いの店店が、川床の用意を始めるところが見られる。

 

昔ながらの料亭には、男性の板前さんたちがいるからか、床に敷く畳を運ぶ作業もスムーズだ。

一方で、個人経営の小さな旅館の場合、男手が少なくて、女将さんやアルバイトの仲居さんがなかなか大変そうに用意をしていたりする。

 

連休に入る直前の鴨川を歩いていると、そんな場面が見られたりした。

 

夕方になると、明かりがともり、にぎやかになり始める。

名物「鴨川等間隔カップル」が、少しいい雰囲気になる時間。

 

四条大橋三条大橋付近の河原では、酔い覚ましに風に吹かれている人や

学生サークルが輪になって何やら叫んでいたり。

川床の一番川に近い席のお客さんは、道行人とたまに目が合ってしまったりする。

 

木屋町通りを歩くと、時折、舞妓さんや芸妓さんがお店に入っていく姿が見える。

 

鴨川のすぐ隣を流れる高瀬川は、静かに夜の街の明かりを映す。

 

7月の祇園祭に向かって、ゆるりと風が吹く。風にのって笛太鼓の音が届く…

 

 

 

ーーー

この景色を、風を、音を、

京の街は繰り返してきた。

 

 

今年の床開きは、静かだった。

 

今年も、同じように見えるものと思っていた。

 

川床ありて京のせせらぎ変わらざる -百合山羽公

 

今の鴨川に、今までのような川床の姿はない。

けれど、鴨川は、変わらず流れている。季節も、変わらず流れている。

 

 

 

拝啓 鴨川を愛する皆さま

 

生きて、また川床で飲みましょう

 

             敬具

 

ドーナッツを投げる

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今年の4月の始まりは雨であった。


「どんなに嵐が吹こうとも,雲の向こうはいつだって晴れ」との言葉を引用して

「いつかは晴れると信じて頑張ろうよ」と人は励ます。

 

そう信じて耐えるしかないことはよく理解している。

 

でも


違うんだ,「今」晴れて欲しいんだ。

いつかじゃなくて晴れて欲しいのは「今」なんだ。

と、こちら側の人間はいつも思っている。


どんな状況でも「うん、元気!」としか答え方を知らない人に

「元気?」と尋ねるのは酷ではないか?


潰れかけそうな毎日を必死に耐えている人に

「頑張ってね」

と言うのは、もう十分に頑張っているから何か違うし、

頑張らなきゃ生き残れない、先に進めないフィールドにいるのに、

「頑張らなくていいんだよ」

と言うのは「もう諦めたら?」と勧めているようにも聞こえてしまう。

 

 

違う、私が伝えたいのはそうじゃなくて

 

 

と、いつまでもぐるぐる言葉を探して送信ボタンを押せず終わる。



今まで沢山励まして貰ってきたのに、

間違うのが怖くて、私はどう人に言葉をかけて良いか分からない。

 

 


迷いに迷って,私はとりあえず「おやつ食べよう」と言う事にした。

 

 

当たり前に繰り返してきた誰かの、私の、毎日が、

突然終わるかもしれないと感じる今に、何も言わずに終わるのはあまりにも切ない。

 

以前から困ったらとりあえずおやつ!おやつ!と言っていたけれど,

今日からはもっと色んな願いのこもった「おやつ食べよう」だ。


こんなご時世なので,一緒におやつタイムはできないけれど,

今日も明日も心の中で全力でドーナッツを投げ続けるから,キャッチして下され!

 

届いていなかったら,投げるのが下手すぎて,

京都タワーにでも引っかかっちゃってるんだと思って!

 

練習する。


私の、あなたのところが、雨でも嵐でも、届けられるように

 

頑張るから。