記憶に残っていること、記憶に残していること

 

春は一瞬でながれていく。
高瀬川に落とした一葉のように、手のひらから離れると
穏やかな流れなのに、すぐに姿が遠のいていく。

毎日をもっと自覚的に生きていたいと思うのだが、なかなか。
自分の感覚器官がとらえた事象を、頭の中でうまく処理しきれていない気がするのだ。


例えば、御所の新緑を眺めていても

「新芽の緑色を見た」という視覚がとらえたことを、
それ以上の事実として認識できないでいる。
「気持ちがいいな」くらいの感覚はあるが、それ以上にはならないのだ。

 

以前の自分は、もっとこう、何かを見たときに
湧き上がる感情や、考えであふれていたのではないか
今の自分は、何か大事な感覚を失ってしまったのではないかと不安になっていた。


日々を生き抜くのに必死で、忘れないための作業と言おうか
じっくりと、毎日を振り返ることが少なくなった。
日記を書いたり、写真を撮ってアルバムを作ってみたりだとか
もうどれくらいやっていないだろう。


振り返る時間が少なくなったというのは
失敗したり、不快に思った出来事も少なくなったということでもあって
ある意味では、良いことなのかもしれない。
けれど、それは
思い出したくない事ほど無意識に思い出してしまっているだけで、
意識的に振り返っているわけではないのだ。


毎日のたわいもないこと
意識的にとどめておかなければ、消えてなくなってしまう日常のこと
そういうことを、私は丁寧に、振り返りたいと思っている。

 

 


最近、「記憶に残っていること、記憶に残していること」について
ぼんやりと考えている。

 

頭の引出しに

無意識的に入れてしまったもの

無理やり入れ込まれてしまったものと

 

「これは大事にとっておきたい」と、丁寧にしまったものとでは

同じ引出しに入っている、存在するものでも、違うと思っている。

 

では、今の私が丁寧にしまったもの、「記憶に残していること」は何だろう。

 

 

 

そんなこんなを考えていたら、桜も散り、半袖の季節になった。

あっという間にもう6月。

まぁ、充実はしているのだ。とても。
しみじみと振り返っている暇もないほどに。


時間があるから振り返って懐かしむ。


今は、きっと数十年後の私が「振り返って思い出す」かもしれない時間を生きている。

 

よどみなくするすると流れていく時間
零れ落ちていく認識
ただ私の記憶にあるのは、掌から一葉が落ちていったということだけ。

 

 

これは「記憶に残っていること」 なのか 「記憶に残していることなのか」

 

まだ分からない。