ドーナッツを投げる

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今年の4月の始まりは雨であった。


「どんなに嵐が吹こうとも,雲の向こうはいつだって晴れ」との言葉を引用して

「いつかは晴れると信じて頑張ろうよ」と人は励ます。

 

そう信じて耐えるしかないことはよく理解している。

 

でも


違うんだ,「今」晴れて欲しいんだ。

いつかじゃなくて晴れて欲しいのは「今」なんだ。

と、こちら側の人間はいつも思っている。


どんな状況でも「うん、元気!」としか答え方を知らない人に

「元気?」と尋ねるのは酷ではないか?


潰れかけそうな毎日を必死に耐えている人に

「頑張ってね」

と言うのは、もう十分に頑張っているから何か違うし、

頑張らなきゃ生き残れない、先に進めないフィールドにいるのに、

「頑張らなくていいんだよ」

と言うのは「もう諦めたら?」と勧めているようにも聞こえてしまう。

 

 

違う、私が伝えたいのはそうじゃなくて

 

 

と、いつまでもぐるぐる言葉を探して送信ボタンを押せず終わる。



今まで沢山励まして貰ってきたのに、

間違うのが怖くて、私はどう人に言葉をかけて良いか分からない。

 

 


迷いに迷って,私はとりあえず「おやつ食べよう」と言う事にした。

 

 

当たり前に繰り返してきた誰かの、私の、毎日が、

突然終わるかもしれないと感じる今に、何も言わずに終わるのはあまりにも切ない。

 

以前から困ったらとりあえずおやつ!おやつ!と言っていたけれど,

今日からはもっと色んな願いのこもった「おやつ食べよう」だ。


こんなご時世なので,一緒におやつタイムはできないけれど,

今日も明日も心の中で全力でドーナッツを投げ続けるから,キャッチして下され!

 

届いていなかったら,投げるのが下手すぎて,

京都タワーにでも引っかかっちゃってるんだと思って!

 

練習する。


私の、あなたのところが、雨でも嵐でも、届けられるように

 

頑張るから。

 

 

 

6月第4週-7月第2週目

6月第4週~7月第2週目までの間に気になったニュースについて雑感を書き置く。

 

 

 

夫婦別姓訴訟最高裁決定

注目していた一連の夫婦別姓訴訟のうちの一つについて、最高裁大法廷決定が出された。

今か今かと速報を待っていたが、すぐには判決文全文が裁判所ホームページに掲載されないので、どれだけ判決内容をすくって報道しているか、報道各社の力量の差を感じた。今回の裁判は、非訟のため公開されないから、報道各社は原告弁護団の記者会見の前に入手した裁判所から配布された概要で報道したものと思われるが、15時の弁護団による決定正本受領、16時30分の記者会見の前までに出された各社の速報の中では、この記事(夫婦同姓「不当な国家介入」 最高裁判事4人が違憲判断:朝日新聞デジタル

)が一番詳細を伝えていたように思う。

 

もう少し待てば、調査官解説や憲法学者の評釈が出てくると思うので、待っている。

 

別姓訴訟の憲法学的問題については、色々思うところが当然あるのだが、それよりも気になったのは、速報が出た直後SNS上にあげられた本件決定に対する「感想」の中に決定内容についての明らかな誤解がみられた点である。

 例えば「最高裁は、夫婦別姓違憲だと判断したから、別姓は今後も禁止」という投稿については

最高裁夫婦別姓違憲であるとは判断していない。

②別姓制度を最高裁は禁止してはいない

③別姓制度は立法によって解決すべきと判断しているから、理論上は国会の立法によって実現可能。

 というような誤解の指摘ができる。

 

 私も完全に理解できてはいないが、憲法学的知識がなくとも速報の記事まで読めばそのような誤解は生じないであろう点についての誤解が多かったように思う。誤解を招きうるような速報の見出しもいくつかあったため、見出ししか読んでいない人の誤解は致し方ないと思う反面、その誤解が解ける機会はあるのだろうか?、SNS上に感想をあげる程度にはこの問題に関心のある人々が誤解したままなのはもったいないと思った。

”世論”を形成する多くの一般の人々は、わざわざ裁判所HPから検索して決定正本全文を読み、関連判例や評釈・学説まで調べて読むまではしないであろう。みんな忙しいし、専門書は小さな書店にはおいていないし、何より高価だ。読んだうえで、この理解であっているかと議論しあう人が、どれだけいるだろうか。

私も深い議論まではまだできていない。

 

平成27年判決では、婚姻・家族制度は「国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因」によって定められると判示している。「国民感情」が婚姻・家族制度の形成に影響するならば、誤解に基づきうまれた感情では適切な制度形成の議論はできない様に思う。

SNS上の見ず知らずの人たちの誤解が気になる一方で、私自身の理解も正しいのか確認したいが、普段接している人たちと面と向かって議論するのはちょっと怖かったりする。

夫婦別姓制に賛成・反対かという議論と、判示された内容や学説の理論を正しく理解できているかを確認しあうことは別であるから、賛否を表明せずとも議論できるはずなのだが。

 

 

 

障がい児の逸失利益の算定基準/命の価値・値段

 

視覚障害を持つ女児の死亡事故についての民事賠償事件について、大阪地裁で公判が開かれている。 

被告弁護人側が、聴覚障がい者は高校卒業時での思考力や学力などが小学校中学年の水準に留まるため、逸失利益は一般女性の40%で計算すべきであるという趣旨の主張を行っていたことから、この主張は差別だとして、聴覚障がい者団体などが10万人を超える署名を集めて、大阪地裁に提出していたらしい。

聴覚・視覚障害の弁護士たちが立ち上った! 難聴の11歳女児死亡事故裁判に異議(柳原三佳) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

民事賠償事件では、健常者よりも障がい者の賠償額が低くなることから、「障害者差別だ、命に値段をつけるなんておかしい 」とよく言われている。

 

裁判実務では「損害」を、生きていれば得られたはずであろう利益(→死亡したために得られなかった利益)ととらえている。そのため、労働により収入を得られる見込みのない者の逸失利益は少なくなるのだ。

だから、年に何億も稼ぐ経営者が死亡すれば億単位の逸失利益になるし、働いて自らの力で生活を立てていくことができない者の逸失利益は当然少なくなるのだ。

 

「損害」をこのようにとらえる限りは、「合理的な差異」であるし、命そのものに値段をつけているわけではない。

 

「人はみな平等なのだから、死亡の損害賠償は同じ金額であるべきだ」と主張する人もいるが、そちらの方が、命に値段をつけているといえる。

なぜなら、仮に、算定基準などなく死亡すれば皆等しく1億円と決めていたら、我々の命は「1億円」と値段がつけられたことになるからだ。

 

だから、「損害」を”奪われた命”そのもの”ではなく、”生きていれば得られたであろう金銭的利益”ととらえているのだろうか。

 

損害の概念がこれでよいのかという疑問もあるが、本事件で争われているのは、その逸失利益の算定基準である。

これは障がいのある方だけでなく、女性の問題でもある。

男女別の平均で算出されるため、男女別にした場合、女性の平均は男性平均よりも低いくなるため、男女別ではなく男女合わせた平均を基準とすべきだとの批判もある。

 

 

女性の働き方の変化や、障がい者雇用の促進、テクノロジーの進歩で、この先今の基準がもっと合わなくなってくるように思う。

聴覚障害のある女の子が将来得られたはずの収入は健常者の40%? テクノロジーが進歩する今、算出方法はこのままでいいのか(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

 

障害者の逸失利益、健常者と同基準で算定 東京地裁判決: 日本経済新聞

 

使う物差しが変われば、おのずと結論も変わってくる。

死亡した女の子が二十歳を迎えるはずだった未来の社会状況を、裁判所はどう見るのだろうか。

裁判の行方に注目したい。

 

【参考】

『障害児死亡における損害賠償額の算定について』吉 村 良 一

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/19-56/022yoshimura.pdf

 

 

 

6月第3週目

 

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毎週メモ代わりにブログを書いていたのに、下書き保存したままだった。
6月第3週目に見たもの・読んだもの・考えた事を書き置く。

 

 杉山卓史先生「触れることの美学(前)」

京大のオンライン講座 立ち止まって考える 「触れることの美学(前)」を視聴。 

全盲とろうの方々は、触れることで事物を認識しているから、「接触を断つ」コロナ下では生活に大きな支障がでたというような話を聞いて、視聴覚に障がいのある方々の大変さに気づいていなかったことを反省した。

 

モリヌークス問題 - Wikipedia(「球体と立方体を触覚的に判別できる先天盲者が開眼手術を受けたとき、開眼した盲人は視覚だけで球体と立方体を判別できるか?」という問題) についての所で、白内障手術は紀元前にすでにあったと聞いて驚いた。凄いな。

 

・質疑応答の中で(59:28あたり)モリヌークス問題は、「科学の発展によって意義のある問題ではなくなる」という質問に対し、「経験的な事実を無視してはならないと思うが、経験的なデータを哲学の側がどう解釈するのか、一つの態度表明を迫る格好の事例であるとは思う。」という旨の回答をされていた。

証明された科学的事実(現段階では結論的には「判別できない」らしい)があって、それでもなお考える意味は何なのかと私も疑問に思っていたけれど、その事実を受け止めたうえで「見える」ということの概念的意味の探究、面白いなと思った。

 

 

 

youtu.be

 

 

RUN!BTS 140・141

KPOPアイドルBTS(防弾少年団)のバラエティを視聴。ところどころ聞き取れる単語があって、韓国語学習の成果を実感できて嬉しい。

「끝(ックッ)」(終わり!)という単語はもう絶対に忘れない(笑)

 

Weverse - Official for All Fans. Join NOW!

https://youtu.be/oK7LiJxmL84

 

・チェギチャギ

 小学校の時に、総合学習だったかで外国の文化を学ぶ授業があって、チマチョゴリを着たり、チェギチャギを作って遊ぶなどしたなと、思い出した。映像に出てきたようなキラキラしたものではなくて、輪状の金属を和紙で包んで作ったような記憶が。

 ちなみに私も3回はできてなかった。遠くに飛んでいかない様に、足首とチェギチャギ本体を紐で結ぶという邪道な遊び方してたと思う。難しいけど結構楽しかったなと、遠い記憶を掘り返してもらった。

韓国のお正月遊び | 名節(旧正月・秋夕) | 韓国文化と生活|韓国成果「コネスト」

 

 

・出張十五夜

 BTSの回で初めて見て、久しぶりにバラエティー見て純粋に笑えたので、他の回も見てみた(日本語字幕もあってびっくりした。)ら、全く知らない俳優さんたちの回でも面白かったので、このナPDさんの作る番組はもしかしたら私の好みなのかもしれない。

www.youtube.com

 

・コッヘル

キャンプ用の調理器具、「コッヘル」という名前なのね。

 

 

 

読んでいるもの

『めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード』

ずいぶん前に買って、かいつまんでしか読めていなかった本を、改めて最初から通読中。

 紹介されていたアーティストに関連して思い出したこと、調べた事を少々

・(40頁) Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス - Wikipedia)は、緑の党の結党に関与していたそうな。緑の党といえば、少し前にみた映画『帰ってきたヒトラー』で、現代にタイムスリップしたヒトラーが、「今のドイツの政党のうち良いと評価できるのは、緑の党くらいだ。」というような趣旨のセリフがあったし、ボイスは、ヒトラーユーゲントに加入していたこともあったから、緑の党はどういう思想のものなのだろうかと軽く調べてみた。(→同盟90/緑の党 - Wikipedia

 

・ドイツはいったいどういうきっかけで環境先進国になったのか、気になっていたのだが、ナチス・ドイツ以前から環境主義的なところがあって、ここにナチスファシズムが合流して環境主義を理由にして全体主義権威主義・人権抑圧などを正当化するエコファシズムにつながっていったらしい。

環境法を学んでいると、規制にあたって南北間の公平*1や民族文化の保存の問題が出てくる。これらの問題を「環境保護」の前では一切無視してよいとするとエコファシズムとなるのだ、とひとまず理解した。

緑の党は、一つの政党として、選挙で議席を獲得し、民主主義のプロセスに乗っ取って、環境保護を実現していこうとする。

 

民主主義社会においては、このやり方が適切である。

 

ただ、民主主義はあくまで多数決によって物事を決めるシステムであって、決められた物事が常に「正しいこと」「正義」であるとは限らないということを忘れてはならない。そこで、多数決で少数者の人権が不当に侵害されない様に、人権保障を定めたのが憲法である。だから、憲法は重要なのである。

 

とはいえど、憲法も多数決で変えられてしまうものなのである。

だから私たちは、学ばなければならないのだ。多数決が少数者・弱者の虐待になっていないか、この先起きえないか、状況をよく理解できるように。そして、学ぶだけではたりない。少数者の人権侵害が起きているとわかっていても何とも思わなければ、「それは間違っている」と声をあげることもないだろう。倫理観というか、他人の痛みを自分のこととして受け止められる感覚がなければ、最後の砦も機能しない。

学び、感じる心を忘れずに生きたい。

 

・ボイスの「社会彫刻」(芸術とは未来の社会を創造性によって構築していくこと)という芸術概念からすると、社会活動家は皆「芸術家」ということになるのだな。

 

Wikiには大学との訴訟で勝訴、教授に復職はできなかったけれど教室使用は許可されたと書いてあったのだけれど、どういう理論構成だったのかな? 解雇に対する訴訟ならば、通常は解雇取消、教授たる地位の確認請求とかになると思うのだけれど、これに「勝訴」したのなら教授に復職できたのでは?と疑問に思っていたら、別のサイトでは、

ボイスは1972年に当時の州文科省大臣によって芸術アカデミーの教授職を解雇されて訴訟で争っていたが、後にヨキムセンが文科省大臣に就いていた1978年に、この訴訟は和解に至った。

http://www.newsdigest.de/newsde/features/11978-joseph-beuys/

とあるので、訴訟による決着ではなく、復職は認めない代わりに教室の使用を認めるという内容の和解で終わった、という感じなのだろうか。

 

・ボイスの活動・作品をもっと見て、「社会彫刻」の思想をもう少し理解したいなと思った。次は作品集を見てみようと思う。

 

*1:『環境法BASIC〔第2版〕』32頁

研究者が肩書のつかないただのオタクになること

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最初の緊急事態宣言があけた後、久しぶりに大学にでて、資料のコピーをしていた時のことだ。

 

 お互い顔は見知ってはいるけれど話したことのない他学部の教授が、にこにこしながら「君は何か、研究分野以外で心の熱くなるものはありますか?」と尋ねてきた。

あるにはあるのだが、未だにまともな論文がしっかりかけていない私は、遊んでいるのではと思われるのが嫌で、はっきりと「あります」と返事をすることに躊躇し、ごにょごにょと口ごもっていた。

 

 すると教授が続けて、「研究者がはまりだすとな、もうね、これまで研究で培ったリサーチ能力やら分析力を総動員するやん。極めつけは、論文まで書く勢いやから、困ったもんやわ。」「学会という名の押しを称える会をやりたいわ。」(関西弁イントネーション)と語りだした。

 

60を過ぎたおっちゃん先生から「押し」というワードが出たことにびっくりだったが、

 

 そうなのだ、我々研究をライフワークとする者たちは、基本的に「オタク気質」なのだ。たまたま、興味の対象が大学の既存の「学問分野」とされるものだったというだけで、大学や研究機関で職ないし発表の場を得られれば「学者」なり「研究者」と肩書がつくが、本質はオタクであることには変わりないのである。

 

緊急事態宣言中、人と話すことが少なくて誰かに声をかけてみたかっただけなのか。

それとも、誰かに思わず語りたくなるくらいはまり込んでしまったものがあるのか、他学部の院生に話しかけてしまうくらいだから、よほどのことだろう。

教授のはまっっているものは何なのか聞いてみたい衝動に駆られたが、抑えた。

 

少なくとも「学者」とよばれるオタクについては、その性質をよく理解しているつもりである。

 

うかつに興味を示すと、数時間は話を聞き続けることになる。

アリジゴクに自ら入り込む虫と同じである。

 

そして万が一にも自分の趣味嗜好に合致するものであった場合、これはまずい。

沼入りである。教授とふたりして「これは共同研究である」などと言って研究室でオタク活動にいそしみかねない。

 

私は、自分の研究と仕事、家事、睡眠時間を確保するので必死なのである。

 

うかつに、興味を示してはならない。

 

 

 私は、まだまだ「研究」というにはおこがましいレベルでしか学問を理解できていないので、不器用なりに「時間をかけること」でどうにか他の院生や研究者に追いつこうとしている。

故に、専攻分野以外では、「推しが第1優先」であるオタクにはなってはいけないと思っていた。

 

 研究者が研究を「業」として続けていくには、成果を出し続けなければならない。研究成果を出せない、論文が書けなければ、大学組織の中では「研究者」「学者」として残ることはできず、肩書のつかないただのただのオタクになるのだ。

 

 教授はさらに続けてこう仰った。

「大学での研究とは別に何か情熱を傾けられるものをいくつか持っておくとええで。研究に全人生をかけるのも悪くはない。せやけど、研究がうまくいかんかったとき、スランプに陥ったときにな、人生の全てがうまく回らなくなんねん。リスクヘッジやと思って趣味も一生懸命愉しもな~。」「僕は毎日楽しいで~。原稿の締め切り迫ってるけどな!!」

 

 

 あれから1年たって最近知ったことだが、教授の指導院生が、鬱になって休学することになったらしい。図書館の度々紙の詰まるコピー機を前に、一緒に悪戦苦闘したりして、時たま話す程度ではあったが、いつも研究室に朝から晩までいるような熱心な子であるのは知っていた。本当だったらその子は去年の春から海外に調査研究に行っているはずだった。

 

 

 数年前の春休みに、私自身も指導を受けたことのある先生が急死された。その3週間前まで普通に授業をされていたから、突然のことに驚いた。

 家族葬が終わってから大学に知らせが入って、お別れの会が開かれたが、ご病気だったとか死因について一切話がでてこなかった。学会の準備で色んな先生方と話していたら、どうやら事故やご病気で亡くなられたわけではなさそうだとなんとなく理解した。

 

 所属していた大学院を修了して、純粋な学生という立場でなくなってから、「研究者」であると同時に教える立場にある「教育者」であることの苦悩のようなものを、指導教授が語ってくれるようになった。

 

 人生は、一つのことだけで成り立っているわけではないし、いろんなことを同時進行しなければならない。研究者にとって研究はオタク活動・自己実現であると同時に、生計を立てる術でもある。

 だから、単なる趣味のように投げ出すことはできない。それは、自分の生きがい・夢と己の(家族の)生活を投げ出すことに他ならないからだ。

 

 長く研究を続けるには、まず、自分自身を長く存続させることがまず第一条件だ。

 

 だから、私は自分自身を支えてくれる支柱を増やそうと思った。

 一人前になるまでは、と封印していたあらゆる趣味を解禁した。

短い期間だったけれど留学までさせてもらったのに、プロになれるわけじゃない、勉強と全く関係がないからと言って、踊らなくなってしまったバレエ。レッスンを再開して、発表会にも出ることにした。

小説や、画集、漫画なども買って読むようになったし、ドラマも見るようになった。

供給量が多すぎて、沼入りすると危険な某KPOPアイドルにも手を出した。

 

好きなものが私の「時間」というパイを奪いあっているわけだけれど、

とにかく毎日楽しい。

時間を最大限有効活用することに必死になったので、メリハリがついて時間の使い方が少し上手になったような気もする。

 

 少し前に、進学先の大学野球でうまくいかず中退し、強盗で逮捕された元甲子園球児のニュースに、「他の道を断って一つの道を進むことはかっこよく見えるけれど、それは本当に苦しいことだから、周りの大人は、教育者は、行き詰ったときに、他の道もあることを示してあげること、今の道を別の道につなげることもできるということを教えてあげることが必要なんだよ」というような感じのコメントをどこかで見た。

 

 

何か頑張っている人を見ると、応援したくなるのが人情である。

それが人を時に追い詰めてしまうこともある。

道を示したり導くなんて、簡単なことではない。

 

けれど、自分はこうやって毎日過ごしている、ということを世間話でもするようにさらっと話してくれることで、気づかされることもある。

 

何にはまっているのかわからないけれど、あの教授は「研究者が肩書のつかないただのオタクになること」を私に語ることで、「自己実現と生活」というプレッシャーを和らげようとしてくれたのかもしれない。

 

単に、推しの話をしたかっただけかもしれないけれど。

 

 

久しぶりに、「成果」や「結果」を考えずに、純粋に自分の好きなものに没頭する時間を意識的にもったことで、ものすごく毎日が楽しいと感じた。

それと同時に、やっぱり私は今の研究が好きなのだと改めて思った。

ただただ、興味が止まらなくて猛進していったオタク活動が、仕事になって、成果を求められるようになって、少しつらくなってしまっただけで、研究対象への興味と情熱は失ってはいないのだ。

 

研究者が肩書のつかないただのオタクになる時間は、

ただの「オタク活動」ではなくなってしまった研究を、好きでいるためにも、必要だと思った。

 

なんやかんやYouTubeを開けば、まともな論文もかけない私が研究以外のことに時間を使うなんて…!!と、背徳感があるけれど、いいんだ。

「成果を出すこと」が先になって、楽しいという感覚を忘れかけていた。

何かを楽しんでいる感覚が、「わからないことを延々と考え続ける」傍から見れば苦行にも似た行為、研究という活動が、私にとっては本来楽しいものなんだと思い出させてくれる。

 

 

 

 

未だにあの教授の押しが何なのかは、知らない。

知らない方がいいかもしれない。

でも今の私なら、お伺いしますよ。

「ところで、先生の”押し”は何ですか…???」

 

6月第1週・第2週

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 少しまとまって、ゆっくり時間をとることができたので、ノートやクラウドに保存してあった大量のメモを整理した。

 せっかくなので、残しておくことにしたメモの一部をここに書き置く。

 

  • 心に残った詩

フォルテとは遠く離れてゆく友に「またね」と叫ぶくらいの強さ

              千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』

進路室は海[22]この世界中から大きな拍手を : 連載/コラム : 読売新聞教育ネットワーク

 シンプルに、ものすごくまっすぐに情景が浮かんできて、いいなと思った。気になって調べてみると、作者の方は、高校の先生をされておられるようで、コロナ下の卒業式について書かれたコラムを見てますますこの詩にひきつけられてしまった。

 

www.toibito.com

  「ジェンダーバックラッシュ」というワードの意味を検索していて見つけた記事。

 

 何かを議論するときには、議論する者が同じ事実を共有していなければ、互いの事実に対する評価が妥当か否かを判断することができない。大学で論文を書く際に教えられたことは「何の事実をどういう基準で評価したのか、事実と評価は分けて書きなさい」ということだったから、事実の適示は必須と思っている。

 限られた文字数で、気楽に使うSNSでは、論文と違って、いちいち事実を全て羅列することなしに、評価だけ「感想」として出されている。だからか、SNS上では、前提にしている事実が投稿者と閲覧者で異なったりして、まともな議論にならずにただの罵りあいになっているのをよく見かける。

 誤解の発生が少ない表現を見つけることを、個人的探究テーマにしているので、どういった表現が、誤解のもとになったのか、「誤読の原因」を探る目的で、何やら焦げ臭い投稿のコメントやリプライ欄を時たま覗いたりしていたのだが、分かったのは、誤読も何も、ただ暴言を吐きたいだけの人、差別したくて仕方がない人も世の中にはいるのだということ、事実はどうだっていい人もいるのだということだった。

バックラッシュ派は、開かれた合理的議論を行うために必要なルールに関して、重大なルール違反を犯しました。何のエビデンスもない、まるでロジカルでもない言説であっても、しつこく言い続けていれば、国民にそれが事実だと信じさせることができる。そのことにかれらは気づいたのです。これがフェイクニュース陰謀論がはびこる今日の状況へとつながっていることは、もはや言うまでもありません

 私は学術が絶対だなどとは思っていません。学術にも多くの誤りがあります――女性に対するダーウィンフロイトの学説がそうであったように――。しかし学術にはその誤りを議論によって正していくシステムがあります。学術研究者は、自分の研究に関連する先行研究を必ず全部読むように教育されます。そうすることで先人の研究成果を――ときに批判的に――継承し、誤りがあれば正し、そこに自分が何を付け加えることができるのかを考える。そのようにして過去を今につなげ、今を未来につなげていくことが学術の歩みであり、さらに言うならば、人類の歩みなのではないでしょうか。何が正しいのかを決めることは決して容易ではありません。時代や地域によって結論が異なることもあるでしょう。しかし、いや、だからこそ、その「正しさ」を決める議論における最低限のルールは、何があっても守っていかなければならないのです。

 自分が、最低限のルールを破らないようにすることはもちろんだけれども、”何のエビデンスもない、まるでロジカルでもない言説”を事実であると信じない様に、しっかりと見定められるようになりたい。
 そのためには、日々、学ばねば。そう改めて思った。

 

 ランダムであてられた住所にハガキを出してみるというもの。

古いメモに「ポストクロッシングをやってみる」というのがあったので、登録してみた。最初の宛先はオランダの森の中に住んでいる方みたい。

 私は、手紙を書くのが好きなのだけれど、最近はLINEが主流だし、みんな忙しくてお手紙は負担に思うかなと思って、控えている。送る相手を思いながらハガキやカードをお店で選ぶ時間がとても好きなので、ポストクロッシングで、またカード選びの愉しみができた。

Postcrossing/ポスクロとは?世界中の人との文通を楽しもう! | かよこぶろぐ。

 

  • その他最近知ったこと

 ロックとロックンロールは違うものらしい。

 クラシックの発展の流れは、多少わかる様になってきたけれど、未だにポップもロックもパンクもディスコもよく分かっていない。この辺りを学んでみたいのだけれど、どの本読んだらいいのかな。

 

  • 観た映画

 インド映画『The Lunchbox』(2013年:邦題『めぐり逢わせのお弁当』)を観た。インド映画といえば、歌って踊ってミュージカル~な、にぎやかなものしか見たことがなかったけれど、この作品は、本当に静かで脚本と役者さんで魅せる映画だった様に思う。終わり方も良かった。

 お弁当の誤配送から始まる物語なのだけれど、まず冒頭30分くらいは、会社員のランチタイム事情や日印の満員電車の様子の違い等々、驚きがいっぱいだった。

 作中のインドのお弁当配達システムは、ダッバーワーラー - Wikipediaというらしい。

各家庭で調理したお弁当を配達するビジネスが出来上がった理由の一つが、「下位のカースト出身者が作った食事を食べることにも抵抗があったため」というもので、富裕層が家事使用人として雇っている人たちは、どの身分の人たちなのだろうかと、疑問に思った。同じカーストの人の作ったものでない限り食べないとすると、上流階級でも女性は家事労働から解放されないのかな、などと思ったり。少々調べてみたい。

 

 上の階に住む、イラのおばさんは、声だけで一切姿が出てこないのは何故なのかなと思っていたら、amazonのレビューによると、同じ家にいるのに携帯ばかり見て会話のない夫と、顔を合わせないけれど心の通じ合っているおばさんの二人を、イラの家の中で対比させることで、お弁当文通相手のサージャンもまた、おばさんと同じように、顔を合わせないけれど心の通じ合う相手として描いているらしい。

 映画を見ていて、「何故?」と思うことが出てきても、なかなか答えを自分で出せないので、映画を見た後は、いろんな人のレビューを観て、「視点」の勉強をしている。

 

youtu.be

 

次にインド映画を見るなら『あなたの名前を呼べたなら』を観てみたい。

 

 6月に入ってから、予定通り韓国語の学習をスタートした。最初は、ハングルの基本文字の読み書きを覚え、文法の基本事項をひととおりさらっと流した。キクタン韓国語(初級編)の例文と訳をノートに書き写し、発音のカナ書き、助詞や活用形などを書き足していく、という方法で取り組んでみた。

 ハングルの読みがまだ定着していなかったのだけれど、この方法でやっていくうちに、いつの間にか、単語の意味は分からなくても読みだけはできるようになってきた。

 2週目もこの感じで続けていきたい。

 

 どうでもよいのですが、「ポムポムプリンは、春春プリン」などとよくわからないフレーズが頭に降ってきて、「そうだね、確かに彼の誕生日は4月、春だったね。」などど頭の中の誰かがつぶやいていた。※韓国語で春は「봄」(ポム)。

 

 

2020 certainly existed

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「1年前の今日」と、写真のアプリから通知がきて、iPhoneをひらいてみる

 

去年の春は、SF小説の世界に入り込んでしまったのか、というような事態の真っ最中

空白というか、すっぽりと、抜け落ちたような感じがしていたのに

iPhoneの中には、その日に食べたものや、飾っていたお花、空、検索した資料のスクリーンショット、買い物メモなんかの写真がたくさん残っていた

 

確かに、私の2020年の春は、生活は、存在したのだ

 

そう気が付いて、少し嬉しくなった

 

何より、日々の生活が楽しそうなのだ

 

自分の姿が写っている写真は一枚もないけれど、なんとなくこの写真を撮っていた私は、ニコっと笑顔だったに違いないと思えるのだ

 

まだ、たいした長さではないけれど、

思えばずっと全速力で走ってきた人生だったから、強制的に一時停止させられて

「私の足を止めないで!」とコロナに怒る反面、

どこかで、ボロボロで疲れ切った私を止めてほしいと思っていたのかもしれない

 

だからか、私はこの強制一時停止をすんなりと受け入れた

 

以前は、作った料理の写真なんか撮ることもなかった

(時間に追われすぎて、もはや作りながら食べていた)

毎日通勤する道も、朝は速足で通り過ぎ

帰りは重い資料の入ったバックや、買い物袋で両手がふさがって

道に咲く花や空を美しいと思っても、カメラを向けることはなかった

 

それが、去年の春以降

そういう自分の日常の切り取られた一瞬が、たくさんiPhoneの中に納まっていた

 

確かに、私の日常は存在したのだという実感とともに

私自身が少しずつ、大事に毎日を生きるように変わっていている感じがした

 

先の見えない将来への不安は尽きないけれど、

確実にある今を、愉しんでいるし、愉しみたい

 

 

心に平安をもたらすことができるのは自分しかいない

   ―ラルフ・ウォルドー・エマーソン 『自己信頼』―

 

 

スクロールしながら、去年の自分に励まされ

私の2021年の6月がスタートした 

 

大丈夫、こんなふうに、私は日々を楽しんでいたのだから、明日もきっと大丈夫

『言葉にできない想いは本当にあるのか』

書店で見かけて タイトルに惹かれた買った一冊。

 

言葉にできない想いは本当にあるのか (単行本)いしわたり淳治/筑摩書房

 

脳内では、オフコースの「ららら らら ららら 言葉にできない~♪」が流れていた。

 

表題の「言葉にできない想いは本当にあるのか」という問いは、冒頭の「はじめに」で、恋人に「愛している」と伝えるときを例にして、作詞家である著者が答えをだしていた。

私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。 (4頁)

そんな風に、私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする。・・・(中略)・・・事務的な連絡だけならば正確に言語化できていると言えるのかもしれないけれど、とかく「感情」という目に見えないものを言語化しようとすると、「言葉」という道具は意外と不便な部分が多く、それこそ「言葉にできない感情 」だらけではないかと思う。(5頁)

 

著者も書いている通り、日常のなかにたくさんある「言葉にできない感情」を、うまくとらえた表現を見つけたりすると、とても嬉しい。

テレビをあまり見ない私にとっては、本やTwitterがそんな喜びを与えてくれる場所だ。

 

著者が気になった言葉を取り上げたこのエッセイ集には、そんな喜びが詰まっていた。

 

初読の感想を少し書き置く

 

瑛人のヒット曲『香水』を題材に、作詞における視覚・聴覚・嗅覚・触覚的表現の取り入れられ方についての考察は、とても面白かった。

 

  • 日によります(17頁)

なるほどな、私も使っていきたいなと思った。

 

  • ギガ放題(23頁)

世の中に「携帯〇〇」は沢山あるのに携帯電話だけ「携帯」といって電話機をさすのもおかしなことだという著者の指摘に、「ですよね!ですよね!」と、意地になって「携帯」と略さずに「携帯電話」と言っていた全私が賛同していた。

少し話題からずれるが、携帯電話やスマートフォンで写真を撮ることを「写メを撮る」という表現をする人が周りに結構いる(30代後半より上の世代)のだが、これもひっかっかりのある表現だ。

カメラ機能付き携帯電話で撮影し、メールに添付する写真のことを「写メ」と呼ぶものだと思っていたので、「写真を撮ってメールで送る」一連の行為を「写メを撮る」という言葉でまとめているならば、理解はできるのだが、「メールで送る」行為を予定していない写真を携帯電話で撮影することを「写メを撮る」と表現するのを聞くと、ぬっ、と一瞬思ってしまう。つくづく面倒くさい私である。

 

  • これからはじめてユーミンを聴ける幸せな人たち (46頁)

若い頃は「知らない」というのが恥ずかしいことのように思えて、手当たり次第に音楽や映画をあさっていたけれど、今は、知らないことはむしろ楽しみなことだと思うようになった。

まさに、今の私は「知らない」ということが恥ずかしいというか、「知らない」ということに負の感情を持っていて、とにかくいろんなものを詰め込みたがっている。学べば学ぶほど、調べれば調べるほど、知らないことが増えていって、少々疲れていた。

「知らない」ということをポジティブにとらえるこの一文に、私は少し救われた気がする。「知らない」ということは、これから新しいことを知るという楽しみが残っているということで、必ずしも「足りない」ことではないのだなと思った。

 

  • 燃やすしかないゴミ (67頁)

短いエッセイだけれども、とても印象に残った。

 

  • ちょっと変な思い出として残したい (138頁)

思うところがあったので、後日改めてBlogに書き残したい。

 

  • だから毎日面白い、イエイ! (162頁)

「私、この前〇〇行ったじゃないですか~」との友人Aの話はじめにいつも「知らんがな」と突っ込みを入れる友人Bがいる。こういう話し方をする人と接続詞始まりの歌は”「ご存じ、私」という謎の圧のようなものを感じる”と書いていた。

「ご存じ。私」という表現がぴったり過ぎて感動した。友人Bは「ご存じ、私」圧を「知らんがな」波で押し返しているのだろう。

 

  • 切りすぎた前髪 奈良美智の絵だ (203頁)

ラブソングというのは、極端な言い方をすれば”他人の恋バナ”にすぎない。興味もないのに一方的に聞かされる赤の他人の恋バナは退屈に感じるものである。そのため、歌詞でもなるべく聞き手に興味を持ってもらえるように、仕掛けを作る必要がある。 

 瑛人の『香水』ついての考察のエッセイと合わせて読むと、作詞の奥深さを感じる。

曲の中に気になったワンフレーズがあると、歌詞の解説Blogを検索して読んだりするが、「あぁ、そうなのか!」と思えるような上手な解説のできる人は、この作詞家によってちりばめられた「仕掛け」に気付ける人なのだろうと思った。

歌詞の中に「調べる」という自主的な行動を持ち込むことで、さらに聞き手の参加意識は高まる。

という考察にも、なるほど…‼とひたすら思った。

 

(余談)

白地に黒文字のタイトルと著者名だけのシンプルな表紙も良かった。多分、これくらいシンプルでなかったら、小田和正氏は私の脳内で歌ってくれはしなかった。

 

 

言葉にできない想いは本当にあるのか (単行本)

言葉にできない想いは本当にあるのか (単行本)

 

 

季節を箱に詰める

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季節を生活に取り込めている人は,とても素敵だなと思う

 

寒くなったらマフラーを出したりお鍋を食べてみたり

一応は季節に「対応して」暮らしているわけだけれども,

その季節季節だからこそできることを

自分から愉しみに手を伸ばしている感じがとても良いのだ

 

今は,花も野菜も年中手に入る時代だ

けれどもやっぱり”旬”というものがあって

その時期の美しさ,美味しさというものを感じられたらいいなと

 

今年はせめて,一歩遅れてからでもいいからと,和菓子とお花を定期的に買うことにした

 

カレンダーに,季節の食べ物や花の名前を書き込む

1月は,花びら餅と七草がゆ,そして水仙

 

 

ここ何年も,七草がゆも節分も,お花見もお月見も

「もうすぐだなぁ」とカレンダーを見ながら気が付いていても

いつの間にか「その日」は終わっていて,結局何もしないままで終わってしまっていた

 

 

 

こういう”なくてもなんとかなる”ものは

忙しくなると真っ先に切り捨ててしまっていた

 

けれど,こういうものを切り捨て続けてきた結果,

自分にぽっかりと穴が開いた,と言おうかなんと言おうか

自分が中身のない空箱になったような気がした

 

これからは,この空箱に季節を詰め込んでいきたい

大事にしまって,時々覗いて

 

いずれは私の中で美しいアンティークになる

 

そんな日を楽しみに

花びらもちをほおばる