『明け方の若者たち』何者でもない事は自由だ

 

カツセマサヒコ著『明け方の若者たち』(幻冬舎/2020年)を読んだ。

就活を終えた大学4年生から20代後半に突入する青年期の物語。

忘れない様に感想を書き置く。*1

 

主人公にとっての”マジックアワー”の始まりの頃、

彼女がMr.Childrenの『inocent world』を口ずさむシーンがある(26頁)。

最後まで読んで再読すると、この曲が、”僕のマジックアワー”の始まりとこの物語の主題を示唆しているように思う。

黄昏の街を背に 抱き合えたあの頃が胸をかすめる

              (Mr.Children『inocent world』)

                      

「彼女」と出会った頃はまだ、就職が決まって大学卒業を控えた時期。まだ夜にもなっていない黄昏だ。

曲調と歌詞は、まだ自己実現の入り口に立っていて、未来に希望を思わせる。

ただ、曲の2番目の歌詞は、入社後の「僕」の毎日そのものだ。

 

近頃じゃ夕食の 話題でさえ仕事に汚染(よご)されていて
様々な角度から 物事を見ていたら自分を見失ってた                                  

               (Mr.Children『inocent world』)

 

 

社会に出て3年目くらいの時は、私も主人公やその同期の尚人と同じように、大学時代の同期と集まれば、せっかくの食事会も、仕事の話ばかりで似たような葛藤を話していた。

 

最初から終わりの見えていた恋と、思い描いていたのとは違う仕事の毎日。

作中「こんなハズじゃなかった」という台詞が幾度となく出てくる。

 

何者にもなれていない自分。

 

青年期は、アイデンティティを確立する時期だ。その確立に大きく影響を与えるのが、人間関係と、日々の時間の大半を占める生活の糧でもある「仕事」だ。

 

自分が何者かを示すのは、案外難しい。

自分はこういう者です、と相手に説明するときに、氏名、年齢、職業をたいていの場合挙げる。スポーツ選手とか作家とか、才能が必要で、誰でもなれる訳ではないような仕事でない限り、仕事なんて生計を立てるための手段であって、自分そのものではない、なんて思っていた。

 

けれど、一日のうちで一番長い時間を費やし毎日毎日繰り返し続き、いつしか仕事が仕事以外の自分を侵食していていくようになると、自分を構成する要素の大部分になってしまって「仕事でしていること」=「自分」となってしまうようになる。

だからアイデンティティの確立には、一日の大半を費やすもの=「仕事」が大きく影響するのだ。

 

昔から、青年期の「自分は何者なのか」という問いや迷いに対する小説は、たくさんある。ただ、私が読んできた作品は、自分は何がしたいのかがわからなくて、自己の確立ができないでいるか、やりたいことは明確だけれど能力不足でなりたい自分になれていない、という登場人物が多かったように思う。

 

けれど、本作『明け方の若者たち』に出てくる主人公や尚人は「クリエイティブなことがしたい」という大雑把ではあるけれども「やりたいこと」を明確にもっていて、能力はある(と思っている)のにそのやりたいことができない、させてもらえない環境にいて「こんなハズじゃなかった」と思っている。

 

主人公「僕」は、第一志望ではなかったけれど、エントリーした大きな企業に内定して「勝ち組飲み」に呼ばれる側にいる。やりたいことはおろか、就職すらできない者たちからしたら、ぜいたくな悩みなのかもしれない。

けれど、当人にとっては、それが他人から見ればいいものでも「こんなハズじゃなかった」のだ。競争に勝ち抜いて、大きな会社に入っても、「何者か」にはなれなかった、と「僕」と尚人は思っている。

 

そんな葛藤があるうちは、まだ、「仕事」以外で自分を構成するものがあるということなのではないだろうか。

「僕」や尚人にとっては「やりたいこと」=「クリエイティブなことをやりたい自分」が、まだ自分を表す要素として、日々の仕事に侵食されずに残っているということなのだ。

 

社会人になったら何者かになれると思っていたのにとこぼす「僕」に「彼女」が言う。

「・・何者か決められちゃったら、ずっとそれに縛られるんだよ。結婚したら既婚者、出産したら母親。レールに沿って生きたら、どんどん何者かにされちゃうのが、現代じゃん。だから、何者でもないうちだけだよ、何してもイイ時期なんて」

        (カツセマサヒコ『明け方の若者たち』207頁-208頁)

 

何者かに「なる」のではなく、何者かに「される」のだ。

こう考えると、自分が何者でもないことを嘆くのは、愚かなことなのかもしれない。

ただ、どうせ社会的に「何者か」にされてしまうのであれば、「される」前に自分から「何者か」になってやりたいとも思ったりする。

 

不倫が題材になっている物語には、「不倫相手と別れて妻・夫のもとに戻る」または「離婚して不倫相手と一緒になる」という筋書きが考えられる。

この物語の結末は前者だ。だけど、選択肢として後者があるのに、「僕」はそれを提案してすがることも、「彼女」もそれを考えたりする描写はなかった。読みながら何故だろうかと疑問に思っていたが、読み直して納得した。

この台詞を言っている「彼女」は結婚している「既婚者」だ。出会った時点で、既に「何者か」になってしまっていた人なのだ。

この物語の主題は「何者かにされつつあるときに何者でもなかった時期(マジックアワー)を振り返る」ことだと私は思っているので、何者かにすでになっている「彼女」が離婚して、「別の者になる」(自己の再確立?)=「僕」とハッピーエンドというのは、主題からそれてしまう。

だから物語で「彼女」は、まだ何者かになっていない「僕」とは一緒に人生を歩けないのだ。

 

引用した上記「彼女」の台詞に対して「僕」は、「うっわー、大人すぎる。人生何週目なの」と返事をしている。

この頃が「僕」にとっては人生のマジックアワーの真っ最中でも、既に何者かになっていた「彼女」にとっては、夜明け(夫が帰国する)、マジックアワーの終わりが近づいた頃で、一足先にマジックアワーを迎えた者だからこそ言える台詞だったのだと思った。

 

物語の終盤、尚人が言う。

「でも、二十三、四歳あたりって、今思えば、人生のマジックアワーだと思うのよね。」

(中略)

「・・・結婚すりゃ夫や妻が家で待ってるっつって飲み仲間へるし、子供ができる頃にはローンや保険で苦しいし、子育て終わったとおもったら今度は親の介護で、全部終わった頃には、こっちの体力が残ってねーじゃん。オールで遊んで、明け方ダラダラと話して、翌日しんどいながらに会社に行く。あれって若いうちしかできないことだったんだよ。だから、こんなハズじゃなするた!って、高円寺の隅っこで酒飲んでたあの時間こそさ、実は人生のマジックアワーだったんじゃないかって、今になっておもうのよ。」 

        (カツセマサヒコ『明け方の若者たち』207頁-208頁)

 

主人公と尚人、そして夫のもとへ戻り主人公から去っていった彼女。皆、”人生のマジックアワー”を過ぎて、朝を迎えた「明け方の若者たち」となる。

 

物語は、主人公が転職するでも、彼女と再会してハッピーエンドを迎えるわけでもなく、ただ、彼女がいたころ、人生のマジックアワーを振り返り泣いて終わる。何か特別なことが起きて、「僕」の仕事や恋が好転するわけでもない。

それが多分、たいていの人たちにとっての人生なのだ。

 

思い描いた人生とは違う、けれど、何者でもないからこそ自由だった。

 

「それでも、振り返ればすべてが美しい」

 

本の帯に書かれた一文に全てが詰まっている。

 

 

私のマジックアワーも、きっと美しかった。

 

 

www.gentosha.co.jp

*1:本ブログ記事における歌詞の引用許諾については、こちらのJASRACのサイトをご覧ください。利用許諾契約を締結しているUGCサービスの一覧